夜の衣をかへしてぞきる

春を待ち侘びながら君のこと考えてた

舞台「二十日鼠と人間」 孤独と共依存、「ままならなさ」の物語

 

舞台「二十日鼠と人間千穐楽おめでとうございます。

 

 

演出を手掛けられた鈴木裕美さんは健くんに「私をこの二十日鼠と人間の世界に連れて行ってほしい」と語ったそうです。その願いを見事に叶えてみせた、1930年代のアメリカ、土と草の乾いた匂いのするような舞台でした。

 

そして、あまりにも辛くてやるせない物語でした。

起こった悲劇が誰のせいでもなく、誰も悪くないからこそどうしようもない苦しさの残る作品でした。

 

 

健くん演じるジョージの想いや相棒のレニーとの関係、それを感じ取ることができなければ、考えることをやめてしまったらただ痛みだけが残る経験になりそうなので自分なりに考えたこと、感じたことを備忘録代わりに残しておきます。言葉にすると安っぽくなってしまいそうで怖いんですが...)

 

まずは舞台公式サイトよりこの物語のあらすじを

 

1930年代、世界大恐慌時代のカリフォルニア州

出稼ぎ労働者ジョージ(三宅健)レニー(章平)は、いつか自分たちの農場を持つ夢を持ちながら、いつも共に行動している。しかし、頭の回転が悪い大男レニーがいつも問題を起こすので、数々の農場を渡り歩くはめになっていた。ジョージは失敗ばかりするレニーの尻拭いをする毎日だが、見捨てることは出来ずにいる。レニーはそんなジョージに頼り切っていた。

レニーが問題を起こし、前の職場から逃げた2人は新たな職場である農場にたどり着く。ボス(藤木孝)と呼ばれる管理人の農場で働くことになるが、レニーはボスの息子のカーリー(中山祐一朗)になぜか目をつけられる。カーリーは若さと美貌を兼ね備える妻(花乃まりあ)を迎えたばかりであったが、なぜかイライラしていた。

ジョージとレニーは労働者のリーダーで賢いスリム(姜暢雄)の下で、下品で無神経なホイット(瀧川英次)カールソン(駒木根隆介)、黒人であるがために馬小屋に住まわされているクルックス(池下重大)、片手が無い老人キャンディ(山路和弘)と共に働き始め、生活を共にしてゆく。ジョージはレニーに、農場で面倒を起こさないよう言い聞かせながら、仕事の合間にはいつも2人で夢を語っていた。

ある日、2人の語る夢を聞いていたキャンディが、「隠し持っている貯金があるから、仲間に入れてほしい」と2人に持ちかけてきたことで、描いていた夢が現実味を帯びてくるが……。

 

結論から言えば、夢は叶いません。

ジョージは罪を犯したレニーを自らの手で撃ち殺します。

何の救いもありません。

 

 

どうしてジョージは面倒ばかり起こすレニーとずっと一緒にいるのか?

 

どうして最後にジョージはレニーを撃ったのか?

 

この2つの問いの答えは作者のスタインベックも、舞台中でも明確に教えてはくれません。私たち観客が考えるべき物語の「余白」なんだと思います。

 

 

*ジョージとレニーの関係性について

 

ずっと二人で連れ立って仕事を渡り歩き生活してきたジョージとレニー。旅の相棒という関係は現在ではそこまで違和感を抱くようなものではないかもしれませんが、この時代の農場で働く人夫は一人で生活することが普通で二人の関係がかなり珍しいものだということがジョージの

「俺たちみたいな農場で働く男たちは世界中で一番孤独な連中だ。」

というセリフやボスが「こんなに他人の世話を焼く人間は見たことがねえ」と言いジョージがレニーの賃金を搾取してるのかと疑う姿勢からもうかがえます。

 

さらにジョージは頭の回転が速く利口なのに対してレニーは巨体ながら知能は子供と同程度しかなく面倒ごとばかりを起こしてジョージの足を引っ張ってばかり。

「お前さえいなけりゃ俺はもっと楽にやれる」というのもジョージの口癖です。

 

冒頭のシーンでは持っていたナイフを振り回し、突き付けながらレニーが問題を起こすせいで前の仕事場から逃げなきゃならなくなったこと、そうして腰を据えれず各地をほっつき回らなきゃならないことを激昂して責めたてます。

 

このシーンの健くんの剣幕が思わず震えるくらい圧倒的で...

めざましテレビで放送されたゲネプロの様子で少しだけ見れるのでぜひ)

 

しかしハッとしたようにまさに激情と呼ぶべきような感情は鳴りを潜めて、自分が言ってしまったことを後悔するように、酷く辛そうに力なくジョージは座り込んで顔を覆って涙声で「お前さえいなけりゃ俺はもっと楽にやれるのに」とつぶやきます。

 

そんなジョージを見てレニーは「俺が一人でどっかのほら穴に行ってもいい」と主張して必死に気落ちしたジョージの気をひこうとするように見えます。

そんな考えを「お前が一人でやっていけるわけない」と否定するジョージに対して「ネズミを取り上げるような奴もいないしね(レニーは動物の毛皮に触れるのが好きなのですが隠し持っていた二十日鼠を2度もジョージに捨てられています。)」と嫌みのようなことまで言ってのけるのです。

 

そんなやりとりを経て「ジョージは俺にどっかに行ってほしい?」と問うレニーに、観念したように、ぶっきらぼうながら彼は「一緒にいて欲しい」と認めるのです。

 

一見レニーがジョージに頼り切っていて、ジョージにとってはお荷物を抱えるだけの関係に見えるのにそうではなくジョージもレニーを必要としていることがうかがえるようなシーンでした。

 

そんな彼らの間でお決まりになっている合言葉のようなセリフが、

「俺にはお前が付いていて」「俺にはジョージ付いている」

(原作では I got you to look after me, and you got me to look after you.)

頭が悪く、何でも忘れてしまうレニーが暗記してしまうほど大切な言葉です。

 

そして孤独な男たちと違って「俺達には未来がある、話し相手がいる、お互いを気にかけてる奴がいる」いうのもお決まりです。

 

そんな彼らの関係を健君はインタビューにて

僕はふたりの関係性は依存しあっているように見えます。レニーにとってジョージは本当に大切な存在だし、ジョージにとってもそれは同じで、レニーはジョージの心そのものというか、ふたりでひとつの関係性なのかなと。もしジョージがレニーをお荷物だと考えているならさっさとどこかにレニーを置いてきたと思うんですけど、それでも長年、連れ添っているのは、やっぱり互いが必要としているものがあるからだと思います。

(SODA 2018年11月号より)

と語っています。

 

彼の言う共依存という関係性がジョージとレニーにはぴったりだと思いました。

 

最初は精神的に依存しているのはジョージのほうでレニーはいざ一人になったら生活能力という面では大いに問題があるものの「普通に」悲しみ、「普通に」取り乱すくらいなのかもしれないな、と感じたけれどクルックスが「ジョージが帰ってこなかったらどうする?」と煽った時の反応からそうではないのかもしれないと考えました。

 

「レニーはジョージの心そのもの」という言葉もなんとなく分かる気がします。

いつか二人で牧場をもつ夢の話も、レニーがあまりにも何度も話してと要求するから自分も信じてしまってたんだ...と夢が崩れたときに苦しげに語ったことからも、レニーの純粋さや真っすぐさがジョージの「夢」や「心」といったやわらかい部分の核となっていたことがうかがえる気がします。

 

私はレニーが、「ジョージをジョージたらしめる根幹」なのだと思いました。

 

少しうがった見方をすると、ジョージはレニーの隣にいることで頭のきれる、出来る奴でいられるのです。

「本当に頭が良かったら農場で働いてなんかいないで自分の土地を持っているさ」とスリムに言ってみせたことや、ボスの追求に押される様子をからジョージが本当に頭が良いとは言い切れないのかもしれません。

それでもレニーといれば頭の回転の速い、他人の面倒までみれる奴になれる

 

そしてレニーの世話を焼くということに自分の存在意義を見出しているような面もあるかもしれません。「レニーの世話役」であるからこそ「ジョージ」でいられるのであって、その役割を奪われたらその他大勢の孤独な農夫になり下がる。レニーと一緒にいなければ自己肯定感やアイデンティティを失い、孤独になってしまう。

 

さらに、何度も何度も繰り返し語るふたりの牧場をもつという夢も、それぞれの夢ではなくジョージとレニーふたりのもので、どちらか一方が欠ければ成立しえないものなんだと思います。

実際、レニーがいなくてもどうにか二人で牧場の夢を叶えられないかとすがるキャンディ―にジョージは首を振り「ふたりのものだったんだ」と苦しげにつぶやいています。

 

つまり、相棒の存在なしには苦しい生活の中の希望である夢を見続けることもできない

 

もっと分かりやすい相棒の必要性は「話し相手」という存在ではないでしょうか?

「俺達には未来がある、話し相手がいる、お互いを気にかけてる奴がいる」というセリフや、話し相手がいないというカーリーの妻や黒人のクルックスの孤独の描き方からこの作品中の「話し相手」という存在の持つ意味の大きさがうかがえます。

 

つまり、ジョージにとってレニーは自分を孤独でなくしてくれる、夢を見続けさせてくれる、そして自分を自分でいさせてくれるなくてはならない存在だったのではないでしょうか?

 

 

*ジョージの最後の選択について

物語の最後、二十日鼠や子犬に触れる力加減が分からず殺してしまうのと同じように、レニーは誤ってカーリーの妻を殺してしまいます。息絶えた彼女の姿をみつけたジョージは自分たちの夢が露と消えたことに絶望しつつ、ある決意をします。

 

自分の手で幕を引くことを。

 

この場面、原作ではジョージが涙するという表現は見当たらないのですが健くん演じるジョージは泣いているんですよね。単純に夢がついえたという絶望の涙だけには見えなくて、もっと複雑な痛みを伴う涙に見えました。

 

自分の半身ともいえるレニーを失うことになるという喪失感と、その半身は自らの手で切り落とさなければならない痛み。望まぬ未来に対して抵抗することのできない、どうしようもない無力感。色んなものがごちゃ混ぜになった、この物語の一つのテーマでもある「どうしようもなさ」に打ちのめされた涙だったのだと私は思います。

 

 

ではどうしてジョージは自分が引き金を引く決意をしたのか?

それは「正しい」決断だったのか?

 

もちろん、妻を殺されたカーリーがレニーを許すはずなく彼をひどいやり方で殺そうとするだろうから、苦しませることなく一瞬でとみれば「正解」でしょう。

レニーを許してほしい、殺さないでと縋ったところでそれは叶わないというのは「どうしようもない現実」でそれをジョージは受け入れるしかなかった。

 

そしてジョージの選択の伏線となっていたのが、農場仲間のキャンディの飼っていた老犬の最期です。

臭って迷惑だし、動くのもままならなく、食べることもできないほど老いているのでは生きている意味がない、楽にしてやれと仲間に言われるも「俺にはできない」と撃ち殺すことを他人に任せます。

しかし後日、ジョージに「俺が撃ってやればよかった...」とこぼすのです。

 

ずっと一緒に過ごしてきた相棒の最期を他人に任せないで責任を持つこと。

 

「どうにもならない現実」に直面したのなら、その中でせめてもの光明を掴むこと。

 

おそらくジョージは責任を果たして後悔しない、という自分のためと、

自分にとっては消え果てた夢だけどレニーには絶望を見せぬまま、夢を見せたまま眠らせてやろうと相棒のため、ふたりのためにあの結末を選んだのだと考えます。

 

それはエゴだと感じる人もいて、レニーを救えたのかは賛否が分かれかもしれないけれど、あれはジョージが身を切って掴んだ正解だったと思います。

 

ふたりで大好きなうさぎのいる牧場を持つという夢はレニーにとっては絵空事でも、現実逃避でもなくジョージといればいつか叶う「未来」のまま終われたから。

 

最後まで一緒に夢の話をする「話し相手」で自分を「気にかけて」くれるジョージが隣にいたから。

 

そう、ずっとふたりが言っていた

「俺達には未来がある、話し相手がいる、お互いを気にかけている奴がいる。」

という象徴的なセリフのままでいられたのだから。

 

 

それを証明するかのようにレニーはこの上なく幸せそうな顔のまま幕は下ります。

 

 

無垢なレニーの笑顔

 

それまでの葛藤や涙と震えが消え、スッと引き締まった表情で自らが引き金を引いた銃口の先を見据えたジョージ

 

そして照明にきらきらと反射していた水面の光

 

 

静謐で、あまりにも痛く、美しいラストシーンでした。

 

「観る人が「美しさ」を感じる二人になれるよう」*1とレニー役の章平さんが語っていたその通りでした。

 

キャンディ役の山路和弘さんは「ラストのジョージの選択が「一番優しい終わらせ方」に見えたとしたら、それは成功では」*2と言います。

 

 

人は誰しもどうしようもない孤独を抱えている。だけど、むしろだからこそ、人との繋がりを求めて、ままならない世界の中を翻弄されながら必死に生きていかなくてはいけない。

 

ヒーローや王様でもなく、アメリカの片隅の農夫のたった4日間をただただあるがままに切り取って、現代にも通ずる向き合うにはつらくて少し目を背けておきたくなるようなテーマを鮮やかに描き出した素晴らしい作品でした。

 

ジョージとレニーが残した孤独の痛みと、不毛な現実へのやるせなさも見ないふりはせずに全部抱えて帰ること、それが私たちの宿題なのだと思います。

 

 

 

 その宿題の提出に代えて。

 

 

 

*1:舞台パンフレットより

*2:同じく舞台パンフレットより

SixTONESのHysteriaの歌詞を勝手に解釈してみた

 

▶Hysteria

【名詞】ヒステリー、病的興奮

 

さらに詳しい記述のあった日本語word netによると

1過度の抑制できない恐れ

2暴力的な精神的動揺状態

3暴力的な感情の爆発と感覚機能と運動機能の障害が特徴的な精神症状

 

 

そして、SixTONESの楽曲

 

2017年の少年たちで披露されたJAPONICA STYLEでオタクがバタバタと倒れ「扇子が…布が...」という遺言を残して死んでいったこともまだ記憶に新しいのにもう2018年の少年たちがきてしまったんですよ。

 

初日以降のレポからは英語詞多めで赤西楽曲っぽい雰囲気ってことが伝わってくるけどいかんせん新衣装のインパクト()でいまいちどんな曲かわからないまま日生劇場に向かったら案の定圧倒されて帰ってきました。

 

JAPONICA STYLEを見た衝撃が息をのむというか、息をすることを忘れてしまうものに対してHysteriaは息を詰める息を殺すというか...

「ヒステリー」というその曲名の通り興奮や劣情は確かに感じるのにどこか静謐で、「2人」以外はいない世界をのぞき見していて必死で身を潜めているような感覚に襲われました。

 

とりあえず不倫か浮気か報われない恋みたいな内容を歌っているっぽいけど何!?

一体この雰囲気は何!?!?

早く公式の歌詞を!!!!!!!

 

ってずっっっっっと思っていたので我らが少クラで公開された今、自己満歌詞解釈始めます!(いつものことながら妄想がはなはだしいので苦手な方はお戻りください。)

 

まずは公開された歌詞の全文を

Hysteria

 

I've been looking for ya, Wanna ge to know ya

Wanna be your men, I need your lovin', lovin', lovin'

Baby, I just wanna take you away, 一人きりじゃFeeling so blue

Alright, いつでもCallin' your name

 

I got you baby, Let's take it so slow 深まっていくBlack night

いくら君を忘れようとしても I just can't leave you alone, Ah

目と目が合えば You give me butterflies

だから君以外 Uh 欲しくない, All that I want

 

肌に触れたyour lips So red

I just can't get enough その甘いFlavor

 

いつも Missing you Missing you

Give me a Give me a green light

離さないで Coz you drive me crazy

 

Hysteria

Will you be mine? Be my SixTONES Wow Wow

 

Girl, Just let me hold ya, Kiss me like your lover

We'll never be friends, We keep on freaking, freaking, freaking

Baby I just wanna see you again, その瞳がmake me insane

Alright, 染めてく My world in pink

 

So listen baby, I'll break it down 何度だってRound&Round

夜の闇を探すけれど Your love will never be found, Ah

二人の部屋はまるでParadise

見え透いた未来, Uh 望まない All that I need

 

溺れてみたい Your tears, Your lies

I wanna get you now 滲んでく Make up

 

今も Digging you, Digging you

見えない Yellow light, Yellow light

そうやめないで Cuz you drive me crazy

 

Hysteria

Will you be mine? Be my SixTONES Wow Wow

 

So beautiful, 熱く溶けるほどに Give me your love

I just keep falling for you, Can't get you out of my head

伏し目がちな Your smile もう二度と戻れない

今も Lost in your eyes...

 

Hysteria

Will you be mine? Be my SixTONES Wow Wow

Will you be mine? Be my SixTONES

 

 

 最初に日生劇場で聞いた印象としては菊池風磨くんrougeにちょっと雰囲気というかストーリーが似てるんかなとなんとなく感じていました。でもHysteriaのほうが仄暗くて堕ちてる感じがすごく強い… 

 

歌詞を把握しても割とこの第一印象は崩れなかったので私はこの曲は相手のいる女性への抑えきれない想いを歌っているのだと考えます。

彼女にとっての1番は他にいることは分かっていながらも焦がれて、求めて、どうしようもなく堕ちていこうとしてる。という設定で歌詞を和訳(個人の主観による意訳です...)しながら追っていきます!

 

I've been looking for ya, Wanna ge to know ya

Wanna be your men, I need your lovin', lovin', lovin'

「君をずっと探してたんだ、知りたいんだ」というのはなんとなく「君」という個人というより「愛したい・愛せる人」を彼は探してたんじゃないかなって思います。虚ろな、光のない瞳をしてふらふらしていた彼が「手に入れたいもの」を見つけて溺れていく様子をイメージしました。だから「君のオトコになりたくて、君からの愛が満たされるために必要なんだ」と。

 

 

Baby, I just wanna take you away, 一人きりじゃFeeling so blue

Alright, いつでもCallin' your name

だけど君にはもう相手がいて...でもそんな理由で抑えられる訳なんかなくて「ただ君を連れ去りたい。だって一人きりじゃ憂鬱だから」

 

そしてこの「一人きり」というのはもちろんストレートに彼を表していてもいいけれど彼女に対する形容詞っぽいなと私は感じました。彼氏もしくは夫はいるのだけれど浮気をされていてそれに彼女も気づいているのかなって勝手に妄想しています。

一人きりじゃ寂しいだろ?一緒に堕ちてしまおうよ、と手を引いて「いつでも君の名前を呼んでる」からという彼。

 

I got you baby, Let's take it so slow 深まっていくBlack night

いくら君を忘れようとしても I just can't leave you alone, Ah

そんな彼の手をとった彼女に「やっと君を手に入れたんだからゆっくり楽しもう」と告げ深まっていく闇夜。深まるBlack nightは物理的な夜だけじゃなくて二人の暗い関係も表現する効果も持ってそう。

 

そんな夜を過ごしたけれどやっぱり許されない関係だし、君は元の生活に戻っていくから忘れようとするものの「君を一人にはしておけない」

 

目と目が合えば You give me butterflies

だから君以外 Uh 欲しくない, All that I want

Butterfliesで胸がどきどきする、という意味も持つようなのでここではその意味でとると解釈しています。世間体だとかそんなものは関係ない、「欲しいのは君だけ」なんだ、と。

 

肌に触れたyour lips So red

I just can't get enough その甘いFlavor

そして一度君を手に入れてしまったら、蜜の味を知ってしまったら「足りない」、もっと、と際限なくその甘さを求め続けてしまう...

 

いつも Missing you Missing you

Give me a Give me a green light

離さないで Coz you drive me crazy

「いつも君に会いたくてたまらない、君の存在が欠けているんだ」

「green light=青信号」と捉えて、この許されない道をすすむ許可をくれよ。

「離さないでよ、だって君が僕を狂わせるんだ」狂わされるけど、だからこそ離さないでほしいというところに切迫感が滲んでる。

 

Hysteria

Will you be mine? Be my SixTONES Wow Wow

病的なまでの抑えきれない君へ想い

僕のものになってよ

はあ~!「俺にしとけよ」ってよく少女漫画にあるじゃないですか?あれの全っっっ然爽やかじゃないバージョンだと思ってます!!僕のものになれと言いながら絶対二人の未来のことなんて考えてない。刹那的にただただ今が満たされればいいと思ってそう...

 

Girl, Just let me hold ya, Kiss me like your lover

We'll never be friends, We keep on freaking, freaking, freaking

タナカジュリの天才パート。ここを田中樹に歌わせた人が文句なしのMVP。金一封の授与待ったなし。

「抱きしめさせてよ、愛する人にするように口づけてよ」

個人的に「”like" your lover」なのがすごくしんどいです...

be my girlと彼女のことを手に入れたいと願いながらも本物のloverにはなれないことに薄々と気づいてる。

君に執着して愛して焦がれてるのに本気で奪って真正面から恋人にはなろうとしてない彼の姿勢が所々から感じられて、それがこの曲の危うさというか背徳感というか薄暗い雰囲気につながってるのかなって思ってます。

 

「僕らは「友達」なんかには決してなれない。一緒に狂っていくんだ」

ずっとIの一人称で語っていたのにこのパートだけはWeなんですよ。独りよがりに彼女に執着していたように見えてたけど結局彼女も一緒に堕ちていく...

 

そしてFreakingのFreakには「麻薬などで幻覚症状を起こす、興奮する」という意味もあるらしく「君」の存在が麻薬だったともとれるし、この気持ち麻薬の作用による一時的なニセモノだったともとれるしたまらんワード...

 

Baby I just wanna see you again, その瞳がmake me insane

Alright, 染めてく My world in pink

「もう1度君に会いたい」このフレーズが割と疑問に残ってます。二人の関係は現在進行形なのかと思っていたけど「wanna see you again」ってもう会えないの?

 

単純にいつだって会いたいから別れてもすぐ会いたくなるってことかなとも思うけど、彼が惹かれたのは堕ちてしまった彼女じゃなくて愛する人がいて、ただその人に愛されたいと思っていた頃の彼女なのだとしたらその「君」にもう一度会いたいの?

難しい~~~!!!

そしてまたFreakにちかいワードの「Insane(正気でない、狂気の)」が出てくる。

 

「ピンク色に染めていく」このピンクは性的な、恋愛的なイメージを表現しているんだと思うんですがピンクにこのイメージを持つのは日本の感性みたいです。英語では若さや活力のイメージでthe pinkで最高状態、極致といった意味も持つそう。

 

So listen baby, I'll break it down 何度だってRound&Round

夜の闇を探すけれど Your love will never be found, Ah

「break down=壊す、(反対・敵などを)圧倒、鎮圧する」で君と彼の関係なんて、君の迷いなんて、世間の反対なんて壊してしまうから。もしくは前の「listen baby」を受けて「分かりやすく噛み砕いて言う」で君に自分との関係を納得させて受け入れさせると考えてもいいかな。

 

それを「何度だって繰り返す」と言っているけどRound&Roundで結局ぐるぐると回っているだけで関係が前に進むことはないことを予感させて来る...

 

さらに「君の愛は決して見つからない」でI can't findとかyou won't showではなくて「will never be found」なとこが救いようがないし、探すのも「夜の闇」の中なところが二人の関係の象徴的に思いました。

 

二人の部屋はまるでParadise

見え透いた未来, Uh 望まない All that I need

「二人の部屋はまるで楽園のよう」だけどきっと楽園のようなきれいな幸せなものじゃないし、二人の関係に上手くいく未来なんかないことは分かりきっているけど、そもそも未来なんて望まず今、「君が必要」なのかな。本当に刹那的で欲望に忠実で、無責任。前に出てきたwantより強いneedが使われていていよいよ「Hysteria」が進行していそう...

 

もしくはParadiseをエデンの園と訳すとより二人の関係の禁断っぽさが出そう。

 

溺れてみたい Your tears, Your lies

I wanna get you now 滲んでく Make up

君が彼を思って流す涙や、僕に告げる「好き」だという嘘にも溺れてしまいたい、とにかく今、君を手に入れたいと手を伸ばすけど君は涙を流して化粧が滲んでいく。ってイメージ?

 

女の子が奔放な人だったら「あなただけよ」とか「愛してる」がyour liesになりそうだけど個人的にちょっと違うかな?って思ったのでこの「嘘」がどんなものなのか気になりました。

 

うわべだけの「好き」とかではなく「私は彼と幸せなの」なんて強がる嘘もあり?その解釈でいくとMake upもただ化粧そのものではなくて寂しさとかを覆って取り繕っていた存在になってきそう。「僕」は彼女の愛が手に入らないと嘆いているけれど、彼女も「僕」に出会ってしまったがゆえに今まで自分自身をだましていた仮面がはがれてしまったのかも。

 

今も Digging you, Digging you

見えない Yellow light, Yellow light

そうやめないで Cuz you drive me crazy

dig you=realy like youという意味にもなるそうなので「今も君のことが好きなんだ」あるいはdigを「探す」ととって「今も君のことを探してる」

 そしてYellow lightは黄色信号で二人の関係に対する警告も見えない 、むしろ見ないふりをしていそう。

 

So beautiful, 熱く溶けるほどに Give me your love

I just keep falling for you, Can't get you out of my head

君からの愛は決して見つからないと言っていたのにまだ「Give me」って求めてる。

「ただただ君に夢中になり続けてる、君が頭から離れない」

このパートだけ切り取ればただただ純粋に情熱的に君を求める片思いなのに...

 

伏し目がちな Your smile もう二度と戻れない

今も Lost in your eyes...

ここでyour smileって「君」の描写も入れてくることで「戻れない」のが僕だけじゃなくて「二人の関係」なのかなって思わせてくる。

「Lost in~=~に夢中になって我を忘れてしまうような状態」を指すので君の瞳に魅せられているんだ、ってことになるはず。 

 

 

 

Hysteriaって題に加えてcrazy、freaking、insaneってワードがちりばめられてることで病的で狂気的なまでの「君」への執着を感じてゾッとさせられる...

 

 

そしてこの関係が歪んでることを分かってはいるけれどとにかく今、君を手に入れることだけを望んでる「倫理観?世間体?常識?そんなのどうでもいい!」って考え方とそこはかとなく漂うダーク感がなんとなくジャニーズWEST さんのCHO-EXTACYの雰囲気と似てるなって感じました。

EXTASY(絶頂・恍惚)でまあ普通のエロかっこいい魅せる曲だと思ってたけどSじゃなくてCでクスリの意味だと知って驚愕!最高にぶっとんでて大好きになりました。

 

 

以上長々と歌詞を追って考察してきた結果やはり狂気的に、我を忘れて「君」を求める男の歌だと思っているんですが、上記では男目線ですべてとらえた歌詞の一部のフレーズが女の子の目線からだとすれば少し雰囲気が変わると思いませんか...?

 

Give me a Give me a green light

離さないで Coz you drive me crazy

 

Baby I just wanna see you again, その瞳がmake me insane

Alright, 染めてく My world in pink

 

見えない Yellow light, Yellow light

そうやめないで Cuz you drive me crazy

離さないで、やめないでと言うのは彼女のほうだとしたら結局「Hysteria」だったのは二人ともなのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

相変わらず長い記事にお付き合いいただきありがとうございました。

なにか思うことがあればコメントTwitter(@twinkleplough)へのリプライ、DM、匿名のお題箱でもお気軽にお声がけください!いろんな解釈を知れたらすっごく喜びます!!

 

舞台BOSS CATを哲学的に考察してみた

 

当日に更新したかったのに間に合わなかった...と思ったら1回間違えて途中で公開したから22日更新になってた!ラッキー!

 

7月22日舞台BOSS CAT大千穐楽おめでとうございます。

最初で最後の京本大我初主演舞台を観劇できたことを光栄に思います。

 

 

幕が開く前に雑誌などで語っていた葛藤や千穐楽で見せた涙とは裏腹に堂々たる主演ぶりで、可愛さも狂気もどこか皮肉で冷笑的な表情も、京本大我の美しさを余すことなく楽しめる最高の作品でした!!

 

 

特にうさぎ狩りのシーン!

おばか可愛いうさぎさんのターンから一転、声帯の機能が発達しておらず鳴き声をあげることができないうさぎの命をナイフで刈りとる直前

 

「ないてみなよ...ああ、なけなかったんだっけ?」

 

って笑うのが狂気的でゾクゾクさせられた...。

 

 

なんて、好きなシーンやきょもちゃんの美しさを語るときりがないうえ語彙力が圧倒的に足りないので本題に移ります。

 

私が2回観劇したなかで特に印象的だったオーガのシーンとラストに猫がすべてはお芝居だと語るメタ的なシーンについて哲学的に考察していきます。

とはいえ専門外の哲学に関する付け焼刃の知識で、いろんな思想を都合のいいよう解釈した&舞台中のセリフは完璧な引用ではなく私の記憶に頼ったものなのでお手柔らかにお願いします...

 

 

まずはBOSS CATとそのベースとなった『長靴をはいた猫』のあらすじを

ある粉挽き職人が死に、3人の息子にはそれぞれ粉挽き小屋、ロバ、猫が遺産として分けられた。三男が猫は役に立たぬと嘆いていると、猫は長靴と袋をもらえれば必ず役に立って見せるという。

 

長靴と袋を調達してもらった猫はまずウサギを捕まえ、王様に「我が主人・カラバ侯爵からだ」と言ってウサギを献上し、王様から目をかけられるようになる。これを繰り返して王様と猫が親しくなった頃、猫は三男に川で水浴びをさせる。そこに王様と姫が通りがかり、猫はその前に出て「大変です、カラバ侯爵が水浴びをしている最中に泥棒に持ち物を取られてしまいました」と嘘をつく。そうして、三男と王様を引き合わせ、「カラバ侯爵の居城」に王様を招待することになる。

猫が馬車を先導することになり、道で百姓に会うたびに「ここは誰の土地か」と聞かれたら、『カラバ侯爵様の土地です』と言うよう釘をさす。本当はオーガの土地だったのだが、王様は「カラバ侯爵」の領地の広さに感心する。

 

そして豪奢なオーガの城を、オーガをだまして鼠に姿を変えさせ食べることで奪い、王様が着くと「カラバ侯爵の城にようこそ!」と迎える。王様は「カラバ侯爵」に感心。三男は元々育ちの悪い男性ではなかったので、姫は三男を好きになり無事に結婚。猫も貴族の身となって、鼠捕りは趣味でやるだけになった。

 

舞台では猫を相続するのは三男ではなく次男なのですがこれはキャストの見た目年齢が理由だときょも猫ちゃんが教えてくれました笑

 

そしてオーガをだまして食べてしまうシーン

 

私が小さい頃に読んだ絵本では、

 

猫が「オーガ様はすごいからどんな動物にも変身できるんですよね!」と持ち上げゾウなど大きな動物に変化させてみた後、「さすがのオーガ様でも小さなネズミには変化できませんよね~」と挑発し、それに乗ったオーガがネズミに姿を変えたところをまんまと食べてやりました!

 

という流れだったと記憶しているのですが舞台では猫とオーガの存在に関する哲学な問答がなされていました。人を食う存在であるオーガが食べられたらどうなるのか?と猫は問いそれにオーガは「興味深い」といい食われることを了承するのです。

 

このシーンにおける疑問点を順にあげながら考察を進めていきます。

 

 

*「人を食うのは存在証明」 

 

オーガは自身の存在について

 

人が存在すれば人を食らう俺が存在する

人を食うのは存在証明

人を食わない俺は存在しないし存在できない

 

と語ります。

 

これは哲学だけでなく社会学や心理学、人類学や宗教でも論じられている関係主義の考え方でしょう。デカルトの有名な「われ思うゆえにわれあり」というセリフとは対極に、存在は自分自身が規定しているのではなく、他者との関係によって規定されているというのです。自分というのは個という「点」で独立的に存在しているのではなく、さまざまな他者という線分の交わる「格子点」であると視覚的にも説明されます。

 

「オーガが人を食い、人はオーガに食われる」という関係で規定されていたオーガという存在。

その関係が、オーガが猫に「食われる」ことで崩壊したらオーガという存在はどうなるのか?と猫は問うたのです。

 

初見では、え?オーガ様食べられちゃっていいん?なんて素直な感想もよぎりましたが確かにこの問いは「興味深い」

 

オーガは単純に「食べられて死んだ」のではなく「自身を規定していた関係の消滅による死」といったほうが正しいと考えます。

 

しかし大きな疑問が現れます。

 

*そもそもオーガは死んだのか?

 

これは否であると私は思います。実際劇中でもオーガ自身が

目の前のオーガはいなくなるが、存在はなくならない

オーガは概念だから

またどこかに現れるだろう

と示唆しています。

 

この「存在はなくならない」という主張には合理主義の祖である古代ギリシアの哲学者パルメニデス「あるものはある。あらぬものはあらぬ。」という存在論が引用できます。

 

あるものは不生にして不滅であること。

なぜならば、それはひとつの総体としてあり、不動で終わりなきものであるから。

 

かくしてそれは全くあるか、全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。

 

パルメニデスは言うのです。

 

すなわち、なかったものが生まれたり、あったものが消滅したりと存在が変化することはない。必ず「ある」か「あらぬ」であり続けこの二者間を転化することはあり得ないというのです。この考えをよく体現しているのがオーガの

 

俺は生まれたことがない

 

というセリフだと思います。

 

しかしこれでは「目の前のオーガはいなくなる」という変化は説明できないどころかこんな変化はあってはならないのでは?と素人ながらに疑問を感じると、パルメニデス以降の哲学者たちもこの「不滅の実体」と生成変化をどう調和させるかに腐心していました。

 

これに対しての私なりの結論は、存在は生成変化を確かにするがこの変化は本質に迫るものではないというものです。

人間で考えると難しいのですが、例えばバラの花であれば花が咲くときにつぼみは消滅して、花が生まれるという変化が生じているが、バラの花であるという存在の本質には変化がないというようなイメージ。

このイメージを拡大していけば生成・消滅といった私たちが経験している変化は存在の表面的なものでしかなく本質に変化はなくつねに「ある」であり続けていると解釈できます。

 

したがってオーガは猫に食べられても消滅しておらず、存在し続けていると考えました。

 

では、オーガは「目の前のオーガ」から何になったのか?

 

 

それが、

*オーガ公爵という存在

 であるのではないかと思っています。

 

猫の主人、カラバ公爵と姫の結婚が無事に決まったとき、王は猫も貴族の身分を取り「オーガ公爵」と名乗るように命じるのです。そして猫は多少の驚きと戸惑いを見せながらも拝命します。

 

 

王は猫がオーガを食べたことはおろか、オーガの存在についても知らなかったはずなのに突然「オーガ」の名を出すのはなぜなのか?

 

 

劇中ではなんとなく今思いついただけだというセリフで終わりますがなかなか引っかかる場面だと思います。

 

最初は猫がオーガを食べたことでその存在を取り込んでいて、そのオーガの部分を王は感じ取ってその名が口をついて出たのかな、くらいに考えていたのですが、ハイデガーの『存在と時間』に触れてからは、

 

猫の中にオーガの一部があるというよりは、オーガ公爵という存在は猫の形をしたオーガそのものであり、猫はこの物語のなかにそもそも存在していなかったのではないか

と考えています。

 

ハイデガー人間という存在は常にまだ来ていない未来があり未完であり、自身がその存在をすべて全うするには全生涯を終結させなければならないと主張します。

では未完を完結に変え存在を全うさせる終着点は何か?それがであるといいます。

 

しかし人間は死へと恐怖を抱きその不安を取り除くために自分が死に向かっているということを忘れようとしたり、自分が確実に死ぬということを意識せず過ごす、つまり死が日常性の中に頽落した状態になるのです。

彼はこれでは人間は真の自分を失った「故郷喪失」の状態であり曖昧なものになり果てているとします。

 

つまり、死を意識しすることで存在は確かなものとなる

「いつか死ぬことを忘れるな」という教訓は「メメント・モリ(死を記憶せよ)」が様々な作品のモチーフとなったり、よく耳にするものですよね。2017年のサマパラ菊池風磨公演でも「今日死ぬつもりで生きろ」とのメッセージがありました。

そして、

死において終末に達し、これで全体として存在する

 

もうすっごく乱暴な言い方をしてしまえば、死ぬことで存在するという考え方です。

 

ここで劇中の猫とオーガの死に対する考え方を思い出してみると、オーガは猫との問答のなかで自分が食われて死ぬということを強く意識していきます。

 

永遠に飽き飽きしていた

「終わり」を求めていたのだ

 

という発言からもそれがうかがえます。そしてついに猫に食われたことによってオーガは終末に達して「全体として存在する」ようになった

 

 

一方猫は使用人との会話のなかで

 

死ぬのを怖いと思ったことがない

そもそもそんなこと考えたことがない

 

と飄々と語っています。これは猫が9つの魂を持っている、つまり人生をやり直せることを踏まえたうえでの発言なのですが、同じ永遠をもっていたオーガ(猫に関しては9回という制限付きですが)と比べて「終わり」ということへの意識の薄さが感じられます。

 

この猫の状態はハイデガー流にいえば、日常性のなかに頽落した曖昧な状態、つまり「確かな存在」ではないのです。

 

多少いや、かなり?乱暴で飛躍した考えかもしれませんが、

「オーガ公爵」という実存(そもそもオーガ公爵の存在の虚実を疑うと議論に収集がつかなくなるので実存だと仮定させてください...)の正体としてふさわしいのは

 

・全体として存在するオーガ

・不確かな猫

 

のどちらかと問えばオーガに軍配が上がるでしょう。

 

 

 そしてこの「猫の存在は不確かなものであった」という考え方を使うと冒頭とラストのメタ的なシーンも少し違った見方ができるのではないでしょうか?

 

ストーリーテラーとしての猫

・物語の中の長靴をはいた猫

 

という2匹の猫がいたのではなくあくまでも猫はストーリーテラーであった。

長靴をはいた猫という存在は「あらぬ」ものであった。

 

そういえば、「カラバ公爵」というのもそもそも存在しない架空の公爵、「あらぬ」ものですよね。その幻影に王や姫、カラバ公爵である次男自身も翻弄されていたように、私たちも「長靴をはいた猫」の幻影に翻弄されていたのかもしれません。

 

 

なんて、いったい何が存在していて何が存在していなかったのか頭を悩ませている私たちにストーリーテラーの猫は答えを教えてくれます。

すべてがお芝居で架空のもの、すべてが実在ではなかったと。

 

猫はラストシーンで以下のような内容を語ります。

 

ときには真面目で真剣な話よりもバカ話のほうが大切かもしれません。

とはいえ今回物語がうまくいったのはそれがお芝居の約束事だからです。

私だけでなく、王の長男も、オーガの三男も、カラバ公爵の次男も、姫もウサギもすべてはお芝居の約束事です。

しばし、汗をかいて一生懸命務めたのも、すべては皆さんに楽しんでいただきたい一心です。

理性が目を光らせていることに疲れ果てたときには、長靴をはいた猫のお話を子守歌のようにして眠るのもいいのではないでしょうか?

 

そういって最後に

 

おやすみなさいまし

 

と一言残して暗闇の中へと消えていくのです。

 

この「すべては芝居」という内容に共通するような主張をハイデガーも『存在と時間』を著す以前に唱えています。

 

世界というものは日常的な現存在が演じている演劇のようなものだ

 

と彼は『根拠とは何か』『仮面論』のなかで指摘するのです。

 

つまり世界というのは「世界劇場」であり私たちは気づくとそこにいて何かしらの役割を常に演じている。

 

長靴をはいた猫は王やオーガを前に「敬意をはらった態度」を演じていたし、

そもそもその猫は京本大我が演じていた。

さらに「猫役の京本大我」も「座長の京本大我」も演じられた姿であるのでしょう。

 

そして私たちは舞台の観客を演じていた。

 

普段自分が選択して行動していると思っているすべては「世界劇場」のなかの決められていた役であるのかもしれません。

 

 

 

さあ、いよいよ存在とは何なのか、世界とは何なのか、その正体が分からなくなってきていませんか?

 

私はもう分りません!!!文章にすれば考えがまとまって分かりやすくなるかと思ったけど書けば書くほど分かりません!!

 

まさにオーガ様の

 

なんとなく分かるでいいのに、人間は分かろうとするから分からなくなるんだ

 

という言葉の通りです...。

 

おそらくこれが真理です。

散々「ある」だの「あらぬ」だのはっきりとした存在を追求しようとしてきたけれど、一見価値がありそうで、正しそうな真面目な話よりも価値のないと思われるバカ話が必要で大切なこともあるように、「なんとなく」とか「曖昧な」ものを大切にするのもいいんだと思います。

 

 

というのを着地点にさせてください...。

やっぱり哲学は難しすぎた...。

完全にタイトル詐欺やなこれ...。

 

 

以上がBOSS CATという作品から私なりに頭を悩ませ考えた内容です。

 

長々と書いた割に結論が「分からない」で申し訳ないのですが最後までお付き合いありがとうございました。人の考察や解釈が大好物な人間なので何か思うことがありましたらコメント、リプライ、DM、何でもいいのでお聞かせいただければ死ぬほど喜びます!

 

 

最後にペローの童話『長靴をはいた猫』の教訓を紹介しておきます。

 

まずは、

 

父から子へと受け継がれる豊かな遺産をあてにすることも大きな利益に違いないが、

一般に若い人たちにとっては知恵があったり世渡り上手であったりするほうがもらった財産よりずっと値打ちのあるものです。

 

これは舞台BOSS CATのなかでもきょも猫ちゃんから指摘がありましたし有名な教訓ですよね。

 

しかし調べてみるとペローはもう一つの教訓を提示しているそうです。

 

粉ひきの息子が、こんなに早くお姫様の心を掴んでしまって、

ほれぼれとした目で見られるようになったのは

服装や顔立ちや、それに若さが愛情を目覚めさせたからであって、

こういったものもなかなか馬鹿にはならないものです。

 

要は、世の中顔!顔がいいことは大きな武器

 

舞台では三男は姫から間抜け顔だのなんだと言われてその容姿については魅力だとされてはないのでこの教訓は採用されていませんが、まあ世の中この通りですよね!!

 

そう、顔のいい男たちは正義なんです!!!!

 

この終わり方どうなん?

 

 

 

やっぱり渋谷すばるが好きだって話

自担が事務所を辞める世界がきてしまった。

 

4月13日の金曜日、「渋谷すばる脱退」なんて報道が週刊誌からでた。正直はあ?って思ったけど1ミリも信じてなかったし、自身のソロライブで関ジャニ∞のTシャツ来てMETROCKでも「関ジャニ∞ってアイドルやってます」って宣言してくれるすばるくんに信頼しかなかった。こんなくだらん記事に否定の声をあげるのすら反応したことになる気がして悔しいから黙ってた。

 

「15日に緊急会見を開く」ってことも全部嘘やと思ってたのに、前日寝る前にふと思い出して不安になってしまって、信じるとか言いながら信じきれない自分が嫌になってちょっとだけ泣いた。

 

15日の朝、起きたら「大切なお知らせ」なんてメールが来て嘘やって思いたいのに嫌な想像しかできんくて涙が止まらんくて、でもまだ本人の言葉を聞いてないんやからって必死で自分に言い聞かせて11時を待ってた。あんな地獄のような1時間半を経験したことなかったしもう二度と経験したくない。

 

11時になって、案の定全然ページには繋がらんくて、きっとTwitterをみればお知らせの内容は分かるんやろうけど、むしろ見やんくたって分かるんやけど、どうしても最初は自分の目ですばるくんの言葉を見たくて何回も何回もリロードした。

 

やっと開いたページには想像してたけど認めたくない内容が並んでてほんとに自分でもびっくりするくらい涙が出てきてすっごく久しぶりに声を上げて泣いた。

 

10年くらい前かな、ONEを歌うすばるくんをみて初めて歌を聞いて涙が出て、そこからずっとずっと歌ってるすばるくんが大好きで、すばるくんがやりたいことを全力でやれる世界でありますようにってずっと思ってた。ライブに行ってもファンサなんかせんでいいからただただ歌ってて欲しいって思ってた。一回り以上年の離れた小娘が何言っとんじゃって感じやけど、すばるくんがすばるくんのままで幸せでいて欲しいなって思ってた。

 

そう思っとったはずやのにいざ、音楽を追求するっていう自分のやりたいことをやる決断をしたすばるくんの言葉を素直に受け入れることなんてできんくて、嫌や、なんで、って思いが強くて、「前を向いて」っていうメンバーの言葉すら受け入れられなくて素直に、心から「いってらっしゃい」って背中を押すことができない自分が嫌で嫌でしかたなくて、悲しいのと寂しいの自己嫌悪とでなんかよく分からないけど涙が止まらんかった。

 

エイトのことも、エイターのことも愛してくれてたのに、 ジャニーズらしくない、アイドルでいることが嫌なんじゃないかって周りからは見られてしまいがちやけど誰よりもアイドルでおってくれてたのに、 今までのこと全部、ジャニーズも関ジャニ∞もすばるくんにとっては足かせやったんかなってつい思ってしまったけど大倉くんの「今までに嘘はありませんでした。」って言葉に救われて、私が大好きだったものも信じてたものも全部そのまま持ってていいんやって思えた。

 

大好きで、愛したものを否定してしまうことほど悲しいことはないから、そうさせてしまうような邪推の入る隙をなくしたあの大倉くんの言葉は私たちがいちばん欲しい言葉で、それを伝えられる彼の正しさと強さが頼もしかった。

 

せっかく彼らが私たちに自分たちの言葉で伝えてくれてるんやから、とりあえず向き合ってみようって思って何度も何度もお知らせを読んで、みんな泣きましたって顔してるくせに泣いてませんなんて言ってる会見を見て、会見の全文を読んで、ってしてたらもう受け入れるしかなくて。

 

もちろん、「全部嘘でした~」なんて笑ってくれたらそれがいちばん幸せなんやけど。

 

 すばるくんの音楽を愛して愛されてるとこも、自分のやりたいこと、夢のために邁進してくとこも、中途半端じゃおれんとこも、決めたら絶対やりきるとこも、全部私の好きになった要素で、だからこそこの決断に至ったのは皮肉でもあるけどこれがすばるくんやんなって納得してしまった。

 

すばるくんの決断が彼の言うように自分勝手なんやから、メンバーだって自分勝手に引き留めるっていう選択をしたっていいはずやのに受け入れて背中を押すことを選んだのならしょうがないか。

 

関ジャニ∞にとってすばるくんが支柱であったように、すばるくんにとっても関ジャニ∞が支えでどちらにも必要不可欠なものなんやと勝手に思ってたけど、お互いに離れるって選択をできるほど強くて大きい存在になってたんやなって。私の好きな人たちは私が思ってたよりもっと大きくなってたことにこんな機会だからこそ気づけたなって。

 

すばるくんのいない関ジャニ∞をまだ想像はできないし、6人の関ジャニ∞を目の前にしたら、すばるくんのパートを他のメンバーが歌うのを耳にしたら絶対に泣いてしまうし、ここにすばるくんがおったらって絶対思ってしまうけど、それでも今度のツアーには行きたいし。

 

今まで楽しいことしかなかったって言い切ってくれたからすばる担をしてて本当に幸せだったと思えたし。

 

本当に悲しくて寂しくて、ずっと続くと思ってたものが消えてしまった絶望を味わった報告やったけど、同時にやっぱり好きやなって再確認もさせてくれたし。

 

こんだけ泣かされても嫌いになんかなれなくて、ついていくしかないなんて、厄介な男たちを好きになってしまったな。

 

すばるくんの歌声を2度と聴けんくなるわけじゃないって亮ちゃんは言うけど、それがいつになるんか分からんくて不安で寂しくて、私は弱虫やからこれからアホみたいに何回も泣いてしまうやろうけど、すばるくんがやりたいことを全力でできる世界でありますようにって思いは変わりません。

 

心の底から応援しますって笑顔で背中を押されへんくてごめんなさい。

 

できたらなるべく早めにまたすばるくんの音楽に触れたいです。

 

すばるくんと関ジャニ∞の未来が明るいものでありますように。そうするためのお手伝いが私にもちょっとはできますように。

 

こんな発表があっても変わらずこれからも大好きです。

 

2018.4.16. 01:56

松村北斗に歌ってほしいJ-POP6選

私、魔女のキキです。こっちは絶賛就活中のジャニオタ。

 

ESは書きたくないけどなにか文章は書きたい!

自己PRなんか思いつかなけど顔のいい男たちの妄想なら無限に湧き出てくる!

 

というわけで勢いのまま書きなぐった独断と偏見による松村北斗に歌ってほしい曲6選です!言うだけタダやし、ジェシーが横アリで尾崎豊を歌うような世界なら実現の可能性も0ではないよね!?

 

 

 

 まずは、

 ・哀歌(エレジー) (平井堅

 

哀歌(エレジー)

哀歌(エレジー)

  • 平井 堅
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

 その手で その手で 私を汚して

何度も 何度も 私を壊して

びっくりするくらい重いこのフレーズ、北斗くんに口にしてほしさしかない。他にも告白とかノンフィクションとか平井堅のダークな雰囲気の曲めっちゃ似合うと思うんよね。一筋の照明の下で儚げに、だけど執念を感じる湿度の高いパフォーマンスをする北斗くんを何度想像したことか、、、。

 

パフォーマンスでいえば「ノンフィクション」の鮮やかすぎる死と生を感じるこの世界観に北斗くんを放り込みたい!!!!

見たことない人は1回でいいから見てください。絶対北斗担(そうじゃなくてもオタク全員)好きだから!!!

www.youtube.com

 

 

ユリイカ (GOOD ON THE REEL

 

ユリイカ

ユリイカ

  • provided courtesy of iTunes

 

 一人が好きで それでも嫌で

信じられない自分が嫌で

友だちは2人(自称)で一匹狼キャラを装いつつも、自分のことを末っ子キャラだと思ってて「マジで普通にちょっとキモいんだけど」*1って言われたり、コミュ力が低い(自称)くせに構ってちゃんなめんどくさい天邪鬼な北斗くんっぽい。

私だけを必要としてよ そんなに期待しないでよ

私だけを見つめてよ そんなに構わないでよ

私だけを求めてよ わかった気にならないで

もういいからほっといてよ

私と書いて矛盾

 

切ない綺麗な曲なので歌ってくれればその美しさで少なくとも19950618万人は新たにウェルほくできること間違いなし!!

 

PV撮るなら夕方、子供たちもみんな帰って誰もいない寂しい公園とかを推したい。だんだん夜に変わっていくなかちょっと古びたベンチで街灯に照らされるもよし!軋むブランコでぼんやり揺れるもよし!

もしくは東京の夜。きらきら明るい世界で人波に置いていかれる北斗くんとかね。

はあ〜、何をやっても画になる男!!!

 

あと、

いきなりいなくなれるのは 帰れる場所が待ってるから

ってフレーズが「プライベートは行方不明」でも、映画やドラマに個人で出演してもSixTONESが帰る場所としてある北斗くんにぴったりかなって。

 

 

・成れの果て (椿屋四重奏) 

成れの果て

成れの果て

  • provided courtesy of iTunes

 松村北斗×和=優勝!!!

文句なしの優勝!(いや語彙力)

嫌いな人がいるわけなくない?

どのくらいかっていうと優吾と結婚したくないオンナがいるわけないくらいくらい 。

 

未だ消え残り お前の後ろ髪を引くような真似を

歌いだしからこのキラーフレーズ。歌詞に文学的な表現をちりばめて和のエッセンスを加える椿屋四重奏の音楽は「艶ロック」なんて呼ばれたりしていたそうで。

「艶」まさに北斗くんが体現するものですよね。メンカラの人とかセンターの人には「華」が似合うけど北斗君はこっち。

 

 

暗夜の心中立て (石川さゆり/椎名林檎

 

暗夜の心中立て

暗夜の心中立て

  • provided courtesy of iTunes

もう1曲和の世界観で。 椎名林檎さんが石川さゆりさんに提供してセルフカバーもしてる曲。お二人どちらのver.も女の情念、色香たっぷりの素敵な曲です。

 

いや、北斗くんといえばねえ?

「最後は心中ですよ、二人で。」( CV.本人)ですもん。

安直すぎるかなとも思ったけど

好いたお人にや何処までも

莫迦になる様なをんなだと

世間がわちきを嘲笑へども

自棄や勢(はず)みぢゃありんせん

花魁言葉で歌ってくれ~~~。「1582」(亀梨和也)に続く伝説になろうぜ!!!

 

 

・シークレット (UVERworld)

 

シークレット

シークレット

  • provided courtesy of iTunes

 不倫の似合う男、松村北斗

年上の美人なお姉さんの不倫相手をしてたけど自分は本気になって深みにはまってくのが似合いません?

というわけで本命の彼のことがあくまでも一番な女の人の浮気相手目線のこの曲を。

今の彼と作り上げたもの 捨てきれずに

君は僕に逢いに来ていることも知ってる

この恋は そうさ横恋慕の愛さ

自業自得の運命 天罰

報いを受ける覚悟は出来ている

 

あぁ~、誰よ!?北斗くんにこんなこと言わせる女!って私の中のモンペオタク人格は言ってるけど、

 

割れた花瓶に生けた花 そんな風だね僕達

 

一瞬見えた晴れ間 それだけ焼き付けて

濡れたまま 今日天気良いねって言うような

って危うく笑う北斗くんが見たい。

 

 

 最後は番外編的な私の妄想です、、、

・マスカラまつげ (DREAMS COME TRUE

 

マスカラまつげ

マスカラまつげ

  • provided courtesy of iTunes

 

これ!これはアイドル松村北斗に歌ってほしいんじゃなくて男友達の北斗くんに歌ってほしいの。

 

昼間に彼氏にフラれてその日の夜に北斗くんを居酒屋に呼び出してひたすら話を聞いてほしい、、、。すごく優しく慰めてくれるわけではないけどハイボール片手にあいづちは打ってくれるやつ。そんで強がってたけどアルコールも回ってこらえきれずに泣き出した私を見て、

 

「マスカラのまつげに~」

 

ってぽろっと口ずさんで涙をぬぐってほしいんです!!!!!!

元気出してって慰めてくれる失恋ソングではないけど

朝からがんばった 2回やり直した

自分でできるいちばんかわいいわたしになって

とか、大好きだから頑張ったことを認めてくれてる気がして。


男友達の北斗くんも呼び出されたのをちょっとめんどくさそうに呆れながらも「お疲れさま」って受け止めてくれるくらいの距離感にいてほしいんじゃ~~~。

まあ、この後なんやかんやあって付き合うんですけどね!!!(強欲)

 

 

 

 

 

見たいパフォーマンス、北斗くんに似合う曲、って考えたら1曲も北斗くんが幸せになってなくて反省。つい影のある、妖しい雰囲気を当てはめてしまいがちやけどふまパラの「内容のない手紙」みたいなあったかくて幸せで胸がぎゅっとなるような曲も北斗くんの声と相性いいよね。そっち方面の曲でも考えたい!

 

そしてジャニオタ兼邦ロックオタをやってる身としては推しバンドの曲で考えたかったけどいまいちこれ!ってハマる曲が少なかった、、、。唯一GOOD ON THE REELだけや。

 

あとこれはモロ!絶っっっ対に諸星翔希!!っていうポルノの曲があるので他メンバーver.もやりたい。いつかやる!

 

 

以上、どこに需要があんねん!?ってつっこみたくなるような自己満記事にお付き合いありがとうございました。

 

 

*1:YouTubeジャニーズJr.チャンネル「SixTONESは本当に仲が良いのか?以心伝心ゲームで検証!」より

松村北斗が必死で拾い集めた「あやめ」は何だったのか

 

 3月26日、横浜アリーナ

 

ジャニーズJr.祭り2018 SixTONES単独公演でそれは起こりました。

 

松村北斗によるソロ曲

 

あやめ」(加藤シゲアキ)

の披露。

 

京本ソロ「茜空」の後、前触れもなく北斗君の声で聞こえてきた冒頭「決して空想~」で横浜アリーナに狂乱の渦を発生させたといっても過言ではなかったと思います。

 

やってほしいと思ってた曲をやってくれて嬉しい!

みたいな単純な興奮とは違うある種異様な空気に包まれた、うろたえるオンナたちを一気にその世界観に引きずり込んだ北斗君はまさに圧巻としか言いようがなかった。

 

私も目の前の光景を信じられないまま、ただただ彼のパフォーマンスに息をのんで立ち尽くしたオンナの一人なんですが、いまだに咀嚼しきれなくてとりあえず記憶の薄れないうちに感じたものをまとめたいなと思って初めてブログを書いています。

 

ただの個人的な主観によるポエミーな考察ですのでご注意ください。

長いので結論だけ知りたい人は「松村北斗「あやめ」はいったい何だったのか」に飛んでください。

 

 

 

 

 最初に

 パフォーマンスの概要

 

をまとめると、

 

 

加藤シゲアキ「あやめ」

白シャツ+ジャポのパンツ+水色のストールの松村北斗

メンステ→センステで

あやめの造花5~6本とともにコンテンポラリーダンスで披露し、

バックに髙地、樹、ジェシー、慎太郎がついた(おそらく京本はこの直前にソロ曲披露のため不在)

 

です。誰がどこで何をしたゲームみたい。

 

なかでも印象的だったのがあやめの扱いで、私のあいまいな記憶と優秀なオンナたちによるレポによると、

 

曲頭で一本一本拾い集め、途中でそれを床に叩き付け、また必死にかき集めて胸に抱え、それをまた放り投げて散らして、最後に一輪拾い上げて見つめるけどその一輪も手から離れて照明が落ちたんですよね。

 

あのあやめは北斗君にとっての何だったのか

 

それがずっとずっと頭の中をぐるぐるしていて。

 

なんとなく、あやめを目にしたときにあれはきっと大切なものなんだろうなって思ったのに途中で叩き付けるみたいに投げ捨て、そのくせ床に膝をついて無様にすら見えるほど必死にかき集めたり、虚ろな目をしていたかと思ったらすごく苦しそうに、泣きそうになっていたりして。

 

確かにあのパフォーマンスに胸を打たれて涙したのにいったいなにを表現していたのか受け止めきれなかったのでひたすら考えてました。

 

 

ということでまず

加藤シゲアキ さんの「あやめ」について

 

 

作詞作曲がシゲアキさん本人によるものでその歌詞がこちら

http://j-lyric.net/artist/a0566ec/l03ec82.html

 

2017年発売のNEWSのアルバム「NEVERLAND」通常盤に収録され同名のライブツアーDVDにてそのパフォーマンス映像を見ることができます。

 

シゲアキさん本人はこの「あやめ」をJohnny's web内のブログで

多様性、愛、植物、虹

をテーマにしていると話しています。

NEVERLANDというアルバムタイトルから理想郷が思い浮かび、そこには愛と多様性が不可欠で、多様性の象徴=虹、あやめは英語でIris=虹の女神とつながったと語ります。

 

以下、その歌詞の中で私の気になった点についての考察というか解釈のようなものです。

 

 

まずは初っ端

決して空想 夢想の彼方

このワンフレーズから難解だな!?

 

「決して」というのが「~ない」と続く否定の意味しか知らずにいまいち意味をつかめず違和感を覚えたのですが、辞書によると

1(あとに打消し・禁止の語を伴って)どんなことがあっても。絶対に。断じて。けして。

2必ず。きっと。

の二つの意味があり

②でとると、「理想郷は必ず思い描いた先に存在する」ということなのかな、と。

 

あるいは①で「~ない」が省略されているとすれば「理想郷は決して空想や夢想のむこうのものではなくて、現実になり得るのだよ」とも考えられるのでは?

 

とにかく「美しい世界は存在するから」と肯定しているのだと解釈しました。

 

また「空想」という単語についても

(1) fantasy 心理学的には,比較的非現実的でかつ創造的な想像活動の一形式。直面している現実の課題状況を直接解決しようとするような目的性をはっきりともたずに,そのときの感情や欲求,その他,気まぐれな内的状態によって方向づけられて,新しい観念や心像をつくりだす働きのこと。

(2) fancy 文学では中世以来想像とほぼ同義に用いられるが,区別される場合は,創造的芸術活動として位置づけられる。イギリスでは 19世紀初頭 S.T.コールリッジが,空想を統一原理なしに心象を並べる力と定義し,心象を融合・統一する創造作用としての想像 (想像力) と峻別して下位の精神活動とした。

 

という二種に区別する考え方があり、上の「決して」を②でとればfantasy、①でとればfancyに対応する気がして、たったワンフレーズでこんなに意味が分岐するのがおもしろいなと。

 

 

次に

あぁあなたの 歌声を 雨が流してしまっても

幼気に 巡りゆく やわらかな目をして

「歌声」というのは願いや希望のようなもので、それが「雨」という外的要因に阻害されてしまい叶わなかったとしても大丈夫、と伝えているのだとなんとなく感じたのですが、

「幼気」なのと「やわらかな目」をしているのは一体誰なんだ?という疑問が浮かびます。

 

そこで思い出したのがこの歌のタイトル、あやめ

 

歌声=願い・希望=あやめの種であり、

それが雨に流され蒔いた場所で芽吹かなくても巡りゆきどこかで必ず花が咲く。つまり「幼気」に巡るのはあやめ種で、「やわらかな目」をしているのも咲いたあやめの花なのだと考えました。

 

 

続いてラップ詞の部分

紙で切れた指先のように

伝わらない痛みを忘れないように

この紙で切った傷という例えがすごく秀逸で、さすがシゲアキ先生だなと思うと同時に大学の講義で聞いた「人は他人の痛みを想像することはできてもそれを共有することはできない」というある先生の言葉を思い出しました。

先生がペットの猫を亡くしたとき、お悔やみの言葉とともに私もペットを亡くしたことがあるから悲しみが分かると涙を流してくれる人もいたけれど、その涙は自分がペットを失ったときの悲しみを思い出した、或いは失ったことがなくてもそのときの自分の気持ちを想像した涙であって僕自身が感じた痛みや悲しみと同じものではないというのです。

 

痛みや悲しみを共有することはできないなんて少し寂しい気もするけれど確かにそれは「伝わらない」もので、だからこそ自分の痛みは「忘れないように」してそれをもとに他者の痛みを想像しなくてはいけないのかもしれません。

 

 

空から落ちる蜘蛛の糸  

んなもんいらねぇ飛んでやらあ

蜘蛛の糸というのは有名な芥川龍之介の作品で、地獄に落ちた主人公にお釈迦様が天から蜘蛛の糸を垂らして助けてあげようとした話ですが、そんな他人の力を借りずとも自分で飛んでやる、そのままの意味ですごく分かりやすい。

 

そして芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では、蜘蛛の糸に地獄の他の者たちも自分に続いて登ってきて、切れることを恐れた主人公は「この糸は俺のだ、おりろ」と喚き散らします。そしてこの自分だけが助かろう、という卑しい精神のせいで結局蜘蛛の糸は切れて地獄に再び落ちるんですよね。

この教訓も「あやめ」の愛、多様性というテーマに通じ得るような気がして、そこまで計算されていたのならさすがシゲアキ先生です。

 

雨の弓を渡れ 超えろ 抱きしめろ

「雨の弓」=虹だと直感で理解したけど雨(rain) 弓(bow)でrainbowなことに後から気づいてまさに目からウロコ。恥ずかしながらここで初めて知ったんですけどこれって常識なんですか?虹を雨の弓と表現したrainbowという単語を作った人の感性が素敵だな~。

 

 

続いて英詞部分

cause i need u cause i love u

knock knock open the door

英語なのはボーダレスを表現するうえでそうあるべきだと思ったからだとシゲアキ先生は語ってます。さすが。(n回目)

 

「あなたが必要だから、あなたを愛しているから、そのドアを開けて」

 

なんとなく「knock knock」するのはドアを開けてごらんと外から問いかける「i」でも、内側からドアを開けようともがく「u」でもいいけれど、

 

ドアを開けるのは自分自身の手で、ここでは「u」でなくてはいけないんだろうなと感じました。

 

(I) open the door (for you.)ではなくて命令形のopen the doorなんだと思います。

 

never give up, beautiful world

maikin' a good thing better

この最初のフレーズ、最終的に言いたいことは同じでもいろんな解釈ができるのでは?

とはいえ英語を専門にしていない人間の意訳ですのでお手柔らかにお願いします。

 

・まず「,」を命令文の後に続けて「~しなさい、そうすれば~」という意味で使っているとする場合、「あきらめなければ美しい世界になるから」

 

・もしくはコンマの後は理由だとして「世界は美しいからあきらめないで」

 

・あるいはコンマの後が対象として「美しい世界をあきらめてしまわないで」

 

どの意味でとったとしても美しい世界の存在を肯定して励ましてくれてるんですよね。そしてさらにもっと美しい世界にしていこうって。

 

 

そしてそんな美しい世界では

消して嘘 感傷よ放て

どこまでも

嘘なんかつかなくていい、自分の感じた痛みを押し殺したりしなくていいからありのままのあなたでいて、ということなのかな。

 

 

ついに最後

決して空想 夢想のあなた

今だけは キスしてよ

世界は 心の奥底にある

だから僕は生きていく

虹を歩いてく

最後でずっと「彼方」だったのが「あなた」になるけどこれは一体だれなんだ?という話です。

これは神さまを指しているのだと解釈しました。

 

「決して」は冒頭で示した「②必ず、きっと」の意味をとり、「キスしてよ」は口づけそのものというよりは、「どうかご加護を与えたまえ」として、

「きっと神さまなんて空想にすぎないんでしょう?

だとしても今くらいはそのご加護をちょうだいよ」

と少し皮肉交じりに。

 

そして神さまが例えいないとしても、

「世界は自分の心がつくるものだから、僕は自分で生きていく」

まさに「蜘蛛の糸なんていらねぇ、飛んでやらあ」なんですよね。

 

 

以上、加藤シゲアキさんのセルフライナーノーツと私なりの解釈から「あやめ」は、

 

傷ついたり落ち込んだり、世界に絶望してしまった人や、どうにもならない世界の中でもがいて苦しんでる人たちに対して、愛にあふれ多様性を認める美しい世界は必ずあるから自分らしく生きて、と伝えてくれているものなんだと捉えています。

 

膝を抱えてしまった人の背中に手を当て寄り添い、顔を上げさせ、目の前で飛んで見せて美しい世界へ導いてくれるような曲。

 

ライブやNHKいのちの歌でのパフォーマンス内のシゲアキさんはそんな美しい世界を切り拓き、旗を持ち私たちを先導してくれる存在のように感じました。

 

 

 

そしてここからがやっと本題。

松村北斗の「あやめ」はいったい何だったのか

シゲアキさんのように本人から解答やヒントを与えてもらっていないので完全なる主観による個人の解釈ですのでお気を付けください。

 

正直北斗君の「あやめ」からはシゲアキさんのそれとはほぼ真逆の印象すら受けました。どちらもはりつめたような、幻想的な空気のなかにあれどシゲアキさんのパフォーマンスから感じた力強さや希望とは反対に、北斗君からは儚さや痛み、葛藤が強く伝わってきて。

 

彼が心を乱し、拾い集めては投げ捨てまた必死でかき集めたあの「あやめ」は何を象徴していたのか?

 

そう考えたときにまず頭をよぎったのは愛する人ではないかという考えです。

私の中でなんとなく「コンテンポラリーダンス=恋愛(おもに失恋)ソング」みたいな図式があって、単純にそれに当てはめた形です。

 

大事に恋心をひとつひとつ拾い上げたけれど

どうしても許せないこともあってぶつかり合ってそれを投げ捨てて

だけど忘れられなくて、取り戻したくて必死にかき集めて胸に抱えて

でも結局それは宙へと散っていった

 

割ときれいに失恋の表現にはまりませんか?もしあの「あやめ」が北斗君の大事な人だったならそれに対する切ない痛みの伝わる美しい表現だったと思います。

 

でも私は北斗君が「愛する人」を叩き付けるように投げ捨てるとはどうしても思えなくていまいちしっくりきませんでした。

これは北斗君に対する私の勝手な幻想のようなものなんですが、もし北斗君が愛する人に対して幻滅し、絶望するようなことがあってもその苦しみを相手にぶつけることはないんじゃないかなって思ってます。むしろその絶望の原因は自分のせいだと責めて自己嫌悪でふさぎ込んでしまうような人に見えるなって。

 

だからあの「あやめ」は他者というより北斗君の一部だというほうが近いと考えました。

 

 そして私が出した結論はあの「あやめ」は北斗君の生きる世界、人生そのものなんだろうということです。

 

最初に自分の人生を構成する要素をひとつひとつ拾い上げた北斗君。

だけど「歌声を雨が流してしまう」ように自分ではどうにもできない力に翻弄されることもあって髪を振り乱すくらい苦しんで葛藤して。

時には自分自身に絶望して生きてる世界をどうしようもないくらい嫌いになって投げ捨ててしまいたくなることだってあって。

そんな絶望から逃げ出すみたいに、泣きそうになりながら必死に走って。

それでもやっぱり失うわけにはいかないから必死でそれをかき集めて自分のもとに取り戻して。

 

と、ここまではいい感じなんですが最後に北斗君はあやめを手にしてないんですよね。放り投げて、最後の一輪からも手を離してる。

 

なんでだ?

 

これに対しては全く異なる答えが出せるんじゃないかな、と。

 

まず、北斗君はあやめを、自分の人生をあきらめて手放してしまった、という見方。

 

絶望して、散るならば最後は自分の手でとあやめを放り投げた。

 

花は散るから美しい、あれは痛いほどに美しいバッドエンドだったと捉えることができるのではないでしょうか。

 

また、「あきらめる」というのは一般的にネガティブなイメージを持たれがちですが仏教的にはそうではないみたいです。大谷大学「生活の中の仏教用語」によると「あきらめる」とは、

「諦観」、「諦聴」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。

といいます。つまり北斗君はあきらめることで真理を手にした、そんな見方もできると思います。

 

 

そしてもう一つはシゲアキさん本家「あやめ」に近い解釈。

 

北斗君が放り投げたあやめ神さまから与えられた人生・世界、歌詞における「蜘蛛の糸」に対応するようなものであって、これから彼は「ドアを開けて」自分の「心の奥底にある世界」を生きていくのだという捉え方。

 

これならあやめが彼の手から離れたのは絶望からではなく、フラワーシャワーのように彼の未来を祝福するためだと考えられ、美しい世界を描いた「あやめ」のテーマと一致するかなと思います。

 

そして何より私は北斗君に幸せになってほしいのでこの解釈で納得しています。

 

 

以上、大変長くなりましたが個人的な「あやめ」の解釈でした。

シゲアキさんと北斗君、表現は違えどどちらも胸を打つ圧倒的な美でまさに

いずれあやめかかきつばた

いやこれめっちゃ上手いことまとまったんちゃう?

 

あぁ~、いつか北斗君自身があのパフォーマンスについて言及してくれないかな~。でも私の解釈が全く見当違いだったら死ぬほど恥ずかしいな~。とりあえずもうすぐ始動するらしいSixTONESのweb連載楽しみだな~。

 

 

 

何はともあれ、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

皆さんの解釈や、北斗君はあそこでこんな表現してた!とかあればコメントなりTwitter(@twinkleplough)のリプやDMで教えていただけると嬉しいです。匿名で投稿できるお題箱もプロフィールに貼ってるのでそちらでも!

 

事務所はもちろん円盤化してくれますよね。発売は秋ごろかな???

待ってまーーーーす!!!