夜の衣をかへしてぞきる

春を待ち侘びながら君のこと考えてた

舞台「二十日鼠と人間」 孤独と共依存、「ままならなさ」の物語

 

舞台「二十日鼠と人間千穐楽おめでとうございます。

 

 

演出を手掛けられた鈴木裕美さんは健くんに「私をこの二十日鼠と人間の世界に連れて行ってほしい」と語ったそうです。その願いを見事に叶えてみせた、1930年代のアメリカ、土と草の乾いた匂いのするような舞台でした。

 

そして、あまりにも辛くてやるせない物語でした。

起こった悲劇が誰のせいでもなく、誰も悪くないからこそどうしようもない苦しさの残る作品でした。

 

 

健くん演じるジョージの想いや相棒のレニーとの関係、それを感じ取ることができなければ、考えることをやめてしまったらただ痛みだけが残る経験になりそうなので自分なりに考えたこと、感じたことを備忘録代わりに残しておきます。言葉にすると安っぽくなってしまいそうで怖いんですが...)

 

まずは舞台公式サイトよりこの物語のあらすじを

 

1930年代、世界大恐慌時代のカリフォルニア州

出稼ぎ労働者ジョージ(三宅健)レニー(章平)は、いつか自分たちの農場を持つ夢を持ちながら、いつも共に行動している。しかし、頭の回転が悪い大男レニーがいつも問題を起こすので、数々の農場を渡り歩くはめになっていた。ジョージは失敗ばかりするレニーの尻拭いをする毎日だが、見捨てることは出来ずにいる。レニーはそんなジョージに頼り切っていた。

レニーが問題を起こし、前の職場から逃げた2人は新たな職場である農場にたどり着く。ボス(藤木孝)と呼ばれる管理人の農場で働くことになるが、レニーはボスの息子のカーリー(中山祐一朗)になぜか目をつけられる。カーリーは若さと美貌を兼ね備える妻(花乃まりあ)を迎えたばかりであったが、なぜかイライラしていた。

ジョージとレニーは労働者のリーダーで賢いスリム(姜暢雄)の下で、下品で無神経なホイット(瀧川英次)カールソン(駒木根隆介)、黒人であるがために馬小屋に住まわされているクルックス(池下重大)、片手が無い老人キャンディ(山路和弘)と共に働き始め、生活を共にしてゆく。ジョージはレニーに、農場で面倒を起こさないよう言い聞かせながら、仕事の合間にはいつも2人で夢を語っていた。

ある日、2人の語る夢を聞いていたキャンディが、「隠し持っている貯金があるから、仲間に入れてほしい」と2人に持ちかけてきたことで、描いていた夢が現実味を帯びてくるが……。

 

結論から言えば、夢は叶いません。

ジョージは罪を犯したレニーを自らの手で撃ち殺します。

何の救いもありません。

 

 

どうしてジョージは面倒ばかり起こすレニーとずっと一緒にいるのか?

 

どうして最後にジョージはレニーを撃ったのか?

 

この2つの問いの答えは作者のスタインベックも、舞台中でも明確に教えてはくれません。私たち観客が考えるべき物語の「余白」なんだと思います。

 

 

*ジョージとレニーの関係性について

 

ずっと二人で連れ立って仕事を渡り歩き生活してきたジョージとレニー。旅の相棒という関係は現在ではそこまで違和感を抱くようなものではないかもしれませんが、この時代の農場で働く人夫は一人で生活することが普通で二人の関係がかなり珍しいものだということがジョージの

「俺たちみたいな農場で働く男たちは世界中で一番孤独な連中だ。」

というセリフやボスが「こんなに他人の世話を焼く人間は見たことがねえ」と言いジョージがレニーの賃金を搾取してるのかと疑う姿勢からもうかがえます。

 

さらにジョージは頭の回転が速く利口なのに対してレニーは巨体ながら知能は子供と同程度しかなく面倒ごとばかりを起こしてジョージの足を引っ張ってばかり。

「お前さえいなけりゃ俺はもっと楽にやれる」というのもジョージの口癖です。

 

冒頭のシーンでは持っていたナイフを振り回し、突き付けながらレニーが問題を起こすせいで前の仕事場から逃げなきゃならなくなったこと、そうして腰を据えれず各地をほっつき回らなきゃならないことを激昂して責めたてます。

 

このシーンの健くんの剣幕が思わず震えるくらい圧倒的で...

めざましテレビで放送されたゲネプロの様子で少しだけ見れるのでぜひ)

 

しかしハッとしたようにまさに激情と呼ぶべきような感情は鳴りを潜めて、自分が言ってしまったことを後悔するように、酷く辛そうに力なくジョージは座り込んで顔を覆って涙声で「お前さえいなけりゃ俺はもっと楽にやれるのに」とつぶやきます。

 

そんなジョージを見てレニーは「俺が一人でどっかのほら穴に行ってもいい」と主張して必死に気落ちしたジョージの気をひこうとするように見えます。

そんな考えを「お前が一人でやっていけるわけない」と否定するジョージに対して「ネズミを取り上げるような奴もいないしね(レニーは動物の毛皮に触れるのが好きなのですが隠し持っていた二十日鼠を2度もジョージに捨てられています。)」と嫌みのようなことまで言ってのけるのです。

 

そんなやりとりを経て「ジョージは俺にどっかに行ってほしい?」と問うレニーに、観念したように、ぶっきらぼうながら彼は「一緒にいて欲しい」と認めるのです。

 

一見レニーがジョージに頼り切っていて、ジョージにとってはお荷物を抱えるだけの関係に見えるのにそうではなくジョージもレニーを必要としていることがうかがえるようなシーンでした。

 

そんな彼らの間でお決まりになっている合言葉のようなセリフが、

「俺にはお前が付いていて」「俺にはジョージ付いている」

(原作では I got you to look after me, and you got me to look after you.)

頭が悪く、何でも忘れてしまうレニーが暗記してしまうほど大切な言葉です。

 

そして孤独な男たちと違って「俺達には未来がある、話し相手がいる、お互いを気にかけてる奴がいる」いうのもお決まりです。

 

そんな彼らの関係を健君はインタビューにて

僕はふたりの関係性は依存しあっているように見えます。レニーにとってジョージは本当に大切な存在だし、ジョージにとってもそれは同じで、レニーはジョージの心そのものというか、ふたりでひとつの関係性なのかなと。もしジョージがレニーをお荷物だと考えているならさっさとどこかにレニーを置いてきたと思うんですけど、それでも長年、連れ添っているのは、やっぱり互いが必要としているものがあるからだと思います。

(SODA 2018年11月号より)

と語っています。

 

彼の言う共依存という関係性がジョージとレニーにはぴったりだと思いました。

 

最初は精神的に依存しているのはジョージのほうでレニーはいざ一人になったら生活能力という面では大いに問題があるものの「普通に」悲しみ、「普通に」取り乱すくらいなのかもしれないな、と感じたけれどクルックスが「ジョージが帰ってこなかったらどうする?」と煽った時の反応からそうではないのかもしれないと考えました。

 

「レニーはジョージの心そのもの」という言葉もなんとなく分かる気がします。

いつか二人で牧場をもつ夢の話も、レニーがあまりにも何度も話してと要求するから自分も信じてしまってたんだ...と夢が崩れたときに苦しげに語ったことからも、レニーの純粋さや真っすぐさがジョージの「夢」や「心」といったやわらかい部分の核となっていたことがうかがえる気がします。

 

私はレニーが、「ジョージをジョージたらしめる根幹」なのだと思いました。

 

少しうがった見方をすると、ジョージはレニーの隣にいることで頭のきれる、出来る奴でいられるのです。

「本当に頭が良かったら農場で働いてなんかいないで自分の土地を持っているさ」とスリムに言ってみせたことや、ボスの追求に押される様子をからジョージが本当に頭が良いとは言い切れないのかもしれません。

それでもレニーといれば頭の回転の速い、他人の面倒までみれる奴になれる

 

そしてレニーの世話を焼くということに自分の存在意義を見出しているような面もあるかもしれません。「レニーの世話役」であるからこそ「ジョージ」でいられるのであって、その役割を奪われたらその他大勢の孤独な農夫になり下がる。レニーと一緒にいなければ自己肯定感やアイデンティティを失い、孤独になってしまう。

 

さらに、何度も何度も繰り返し語るふたりの牧場をもつという夢も、それぞれの夢ではなくジョージとレニーふたりのもので、どちらか一方が欠ければ成立しえないものなんだと思います。

実際、レニーがいなくてもどうにか二人で牧場の夢を叶えられないかとすがるキャンディ―にジョージは首を振り「ふたりのものだったんだ」と苦しげにつぶやいています。

 

つまり、相棒の存在なしには苦しい生活の中の希望である夢を見続けることもできない

 

もっと分かりやすい相棒の必要性は「話し相手」という存在ではないでしょうか?

「俺達には未来がある、話し相手がいる、お互いを気にかけてる奴がいる」というセリフや、話し相手がいないというカーリーの妻や黒人のクルックスの孤独の描き方からこの作品中の「話し相手」という存在の持つ意味の大きさがうかがえます。

 

つまり、ジョージにとってレニーは自分を孤独でなくしてくれる、夢を見続けさせてくれる、そして自分を自分でいさせてくれるなくてはならない存在だったのではないでしょうか?

 

 

*ジョージの最後の選択について

物語の最後、二十日鼠や子犬に触れる力加減が分からず殺してしまうのと同じように、レニーは誤ってカーリーの妻を殺してしまいます。息絶えた彼女の姿をみつけたジョージは自分たちの夢が露と消えたことに絶望しつつ、ある決意をします。

 

自分の手で幕を引くことを。

 

この場面、原作ではジョージが涙するという表現は見当たらないのですが健くん演じるジョージは泣いているんですよね。単純に夢がついえたという絶望の涙だけには見えなくて、もっと複雑な痛みを伴う涙に見えました。

 

自分の半身ともいえるレニーを失うことになるという喪失感と、その半身は自らの手で切り落とさなければならない痛み。望まぬ未来に対して抵抗することのできない、どうしようもない無力感。色んなものがごちゃ混ぜになった、この物語の一つのテーマでもある「どうしようもなさ」に打ちのめされた涙だったのだと私は思います。

 

 

ではどうしてジョージは自分が引き金を引く決意をしたのか?

それは「正しい」決断だったのか?

 

もちろん、妻を殺されたカーリーがレニーを許すはずなく彼をひどいやり方で殺そうとするだろうから、苦しませることなく一瞬でとみれば「正解」でしょう。

レニーを許してほしい、殺さないでと縋ったところでそれは叶わないというのは「どうしようもない現実」でそれをジョージは受け入れるしかなかった。

 

そしてジョージの選択の伏線となっていたのが、農場仲間のキャンディの飼っていた老犬の最期です。

臭って迷惑だし、動くのもままならなく、食べることもできないほど老いているのでは生きている意味がない、楽にしてやれと仲間に言われるも「俺にはできない」と撃ち殺すことを他人に任せます。

しかし後日、ジョージに「俺が撃ってやればよかった...」とこぼすのです。

 

ずっと一緒に過ごしてきた相棒の最期を他人に任せないで責任を持つこと。

 

「どうにもならない現実」に直面したのなら、その中でせめてもの光明を掴むこと。

 

おそらくジョージは責任を果たして後悔しない、という自分のためと、

自分にとっては消え果てた夢だけどレニーには絶望を見せぬまま、夢を見せたまま眠らせてやろうと相棒のため、ふたりのためにあの結末を選んだのだと考えます。

 

それはエゴだと感じる人もいて、レニーを救えたのかは賛否が分かれかもしれないけれど、あれはジョージが身を切って掴んだ正解だったと思います。

 

ふたりで大好きなうさぎのいる牧場を持つという夢はレニーにとっては絵空事でも、現実逃避でもなくジョージといればいつか叶う「未来」のまま終われたから。

 

最後まで一緒に夢の話をする「話し相手」で自分を「気にかけて」くれるジョージが隣にいたから。

 

そう、ずっとふたりが言っていた

「俺達には未来がある、話し相手がいる、お互いを気にかけている奴がいる。」

という象徴的なセリフのままでいられたのだから。

 

 

それを証明するかのようにレニーはこの上なく幸せそうな顔のまま幕は下ります。

 

 

無垢なレニーの笑顔

 

それまでの葛藤や涙と震えが消え、スッと引き締まった表情で自らが引き金を引いた銃口の先を見据えたジョージ

 

そして照明にきらきらと反射していた水面の光

 

 

静謐で、あまりにも痛く、美しいラストシーンでした。

 

「観る人が「美しさ」を感じる二人になれるよう」*1とレニー役の章平さんが語っていたその通りでした。

 

キャンディ役の山路和弘さんは「ラストのジョージの選択が「一番優しい終わらせ方」に見えたとしたら、それは成功では」*2と言います。

 

 

人は誰しもどうしようもない孤独を抱えている。だけど、むしろだからこそ、人との繋がりを求めて、ままならない世界の中を翻弄されながら必死に生きていかなくてはいけない。

 

ヒーローや王様でもなく、アメリカの片隅の農夫のたった4日間をただただあるがままに切り取って、現代にも通ずる向き合うにはつらくて少し目を背けておきたくなるようなテーマを鮮やかに描き出した素晴らしい作品でした。

 

ジョージとレニーが残した孤独の痛みと、不毛な現実へのやるせなさも見ないふりはせずに全部抱えて帰ること、それが私たちの宿題なのだと思います。

 

 

 

 その宿題の提出に代えて。

 

 

 

*1:舞台パンフレットより

*2:同じく舞台パンフレットより