夜の衣をかへしてぞきる

春を待ち侘びながら君のこと考えてた

舞台BOSS CATを哲学的に考察してみた

 

当日に更新したかったのに間に合わなかった...と思ったら1回間違えて途中で公開したから22日更新になってた!ラッキー!

 

7月22日舞台BOSS CAT大千穐楽おめでとうございます。

最初で最後の京本大我初主演舞台を観劇できたことを光栄に思います。

 

 

幕が開く前に雑誌などで語っていた葛藤や千穐楽で見せた涙とは裏腹に堂々たる主演ぶりで、可愛さも狂気もどこか皮肉で冷笑的な表情も、京本大我の美しさを余すことなく楽しめる最高の作品でした!!

 

 

特にうさぎ狩りのシーン!

おばか可愛いうさぎさんのターンから一転、声帯の機能が発達しておらず鳴き声をあげることができないうさぎの命をナイフで刈りとる直前

 

「ないてみなよ...ああ、なけなかったんだっけ?」

 

って笑うのが狂気的でゾクゾクさせられた...。

 

 

なんて、好きなシーンやきょもちゃんの美しさを語るときりがないうえ語彙力が圧倒的に足りないので本題に移ります。

 

私が2回観劇したなかで特に印象的だったオーガのシーンとラストに猫がすべてはお芝居だと語るメタ的なシーンについて哲学的に考察していきます。

とはいえ専門外の哲学に関する付け焼刃の知識で、いろんな思想を都合のいいよう解釈した&舞台中のセリフは完璧な引用ではなく私の記憶に頼ったものなのでお手柔らかにお願いします...

 

 

まずはBOSS CATとそのベースとなった『長靴をはいた猫』のあらすじを

ある粉挽き職人が死に、3人の息子にはそれぞれ粉挽き小屋、ロバ、猫が遺産として分けられた。三男が猫は役に立たぬと嘆いていると、猫は長靴と袋をもらえれば必ず役に立って見せるという。

 

長靴と袋を調達してもらった猫はまずウサギを捕まえ、王様に「我が主人・カラバ侯爵からだ」と言ってウサギを献上し、王様から目をかけられるようになる。これを繰り返して王様と猫が親しくなった頃、猫は三男に川で水浴びをさせる。そこに王様と姫が通りがかり、猫はその前に出て「大変です、カラバ侯爵が水浴びをしている最中に泥棒に持ち物を取られてしまいました」と嘘をつく。そうして、三男と王様を引き合わせ、「カラバ侯爵の居城」に王様を招待することになる。

猫が馬車を先導することになり、道で百姓に会うたびに「ここは誰の土地か」と聞かれたら、『カラバ侯爵様の土地です』と言うよう釘をさす。本当はオーガの土地だったのだが、王様は「カラバ侯爵」の領地の広さに感心する。

 

そして豪奢なオーガの城を、オーガをだまして鼠に姿を変えさせ食べることで奪い、王様が着くと「カラバ侯爵の城にようこそ!」と迎える。王様は「カラバ侯爵」に感心。三男は元々育ちの悪い男性ではなかったので、姫は三男を好きになり無事に結婚。猫も貴族の身となって、鼠捕りは趣味でやるだけになった。

 

舞台では猫を相続するのは三男ではなく次男なのですがこれはキャストの見た目年齢が理由だときょも猫ちゃんが教えてくれました笑

 

そしてオーガをだまして食べてしまうシーン

 

私が小さい頃に読んだ絵本では、

 

猫が「オーガ様はすごいからどんな動物にも変身できるんですよね!」と持ち上げゾウなど大きな動物に変化させてみた後、「さすがのオーガ様でも小さなネズミには変化できませんよね~」と挑発し、それに乗ったオーガがネズミに姿を変えたところをまんまと食べてやりました!

 

という流れだったと記憶しているのですが舞台では猫とオーガの存在に関する哲学な問答がなされていました。人を食う存在であるオーガが食べられたらどうなるのか?と猫は問いそれにオーガは「興味深い」といい食われることを了承するのです。

 

このシーンにおける疑問点を順にあげながら考察を進めていきます。

 

 

*「人を食うのは存在証明」 

 

オーガは自身の存在について

 

人が存在すれば人を食らう俺が存在する

人を食うのは存在証明

人を食わない俺は存在しないし存在できない

 

と語ります。

 

これは哲学だけでなく社会学や心理学、人類学や宗教でも論じられている関係主義の考え方でしょう。デカルトの有名な「われ思うゆえにわれあり」というセリフとは対極に、存在は自分自身が規定しているのではなく、他者との関係によって規定されているというのです。自分というのは個という「点」で独立的に存在しているのではなく、さまざまな他者という線分の交わる「格子点」であると視覚的にも説明されます。

 

「オーガが人を食い、人はオーガに食われる」という関係で規定されていたオーガという存在。

その関係が、オーガが猫に「食われる」ことで崩壊したらオーガという存在はどうなるのか?と猫は問うたのです。

 

初見では、え?オーガ様食べられちゃっていいん?なんて素直な感想もよぎりましたが確かにこの問いは「興味深い」

 

オーガは単純に「食べられて死んだ」のではなく「自身を規定していた関係の消滅による死」といったほうが正しいと考えます。

 

しかし大きな疑問が現れます。

 

*そもそもオーガは死んだのか?

 

これは否であると私は思います。実際劇中でもオーガ自身が

目の前のオーガはいなくなるが、存在はなくならない

オーガは概念だから

またどこかに現れるだろう

と示唆しています。

 

この「存在はなくならない」という主張には合理主義の祖である古代ギリシアの哲学者パルメニデス「あるものはある。あらぬものはあらぬ。」という存在論が引用できます。

 

あるものは不生にして不滅であること。

なぜならば、それはひとつの総体としてあり、不動で終わりなきものであるから。

 

かくしてそれは全くあるか、全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。

 

パルメニデスは言うのです。

 

すなわち、なかったものが生まれたり、あったものが消滅したりと存在が変化することはない。必ず「ある」か「あらぬ」であり続けこの二者間を転化することはあり得ないというのです。この考えをよく体現しているのがオーガの

 

俺は生まれたことがない

 

というセリフだと思います。

 

しかしこれでは「目の前のオーガはいなくなる」という変化は説明できないどころかこんな変化はあってはならないのでは?と素人ながらに疑問を感じると、パルメニデス以降の哲学者たちもこの「不滅の実体」と生成変化をどう調和させるかに腐心していました。

 

これに対しての私なりの結論は、存在は生成変化を確かにするがこの変化は本質に迫るものではないというものです。

人間で考えると難しいのですが、例えばバラの花であれば花が咲くときにつぼみは消滅して、花が生まれるという変化が生じているが、バラの花であるという存在の本質には変化がないというようなイメージ。

このイメージを拡大していけば生成・消滅といった私たちが経験している変化は存在の表面的なものでしかなく本質に変化はなくつねに「ある」であり続けていると解釈できます。

 

したがってオーガは猫に食べられても消滅しておらず、存在し続けていると考えました。

 

では、オーガは「目の前のオーガ」から何になったのか?

 

 

それが、

*オーガ公爵という存在

 であるのではないかと思っています。

 

猫の主人、カラバ公爵と姫の結婚が無事に決まったとき、王は猫も貴族の身分を取り「オーガ公爵」と名乗るように命じるのです。そして猫は多少の驚きと戸惑いを見せながらも拝命します。

 

 

王は猫がオーガを食べたことはおろか、オーガの存在についても知らなかったはずなのに突然「オーガ」の名を出すのはなぜなのか?

 

 

劇中ではなんとなく今思いついただけだというセリフで終わりますがなかなか引っかかる場面だと思います。

 

最初は猫がオーガを食べたことでその存在を取り込んでいて、そのオーガの部分を王は感じ取ってその名が口をついて出たのかな、くらいに考えていたのですが、ハイデガーの『存在と時間』に触れてからは、

 

猫の中にオーガの一部があるというよりは、オーガ公爵という存在は猫の形をしたオーガそのものであり、猫はこの物語のなかにそもそも存在していなかったのではないか

と考えています。

 

ハイデガー人間という存在は常にまだ来ていない未来があり未完であり、自身がその存在をすべて全うするには全生涯を終結させなければならないと主張します。

では未完を完結に変え存在を全うさせる終着点は何か?それがであるといいます。

 

しかし人間は死へと恐怖を抱きその不安を取り除くために自分が死に向かっているということを忘れようとしたり、自分が確実に死ぬということを意識せず過ごす、つまり死が日常性の中に頽落した状態になるのです。

彼はこれでは人間は真の自分を失った「故郷喪失」の状態であり曖昧なものになり果てているとします。

 

つまり、死を意識しすることで存在は確かなものとなる

「いつか死ぬことを忘れるな」という教訓は「メメント・モリ(死を記憶せよ)」が様々な作品のモチーフとなったり、よく耳にするものですよね。2017年のサマパラ菊池風磨公演でも「今日死ぬつもりで生きろ」とのメッセージがありました。

そして、

死において終末に達し、これで全体として存在する

 

もうすっごく乱暴な言い方をしてしまえば、死ぬことで存在するという考え方です。

 

ここで劇中の猫とオーガの死に対する考え方を思い出してみると、オーガは猫との問答のなかで自分が食われて死ぬということを強く意識していきます。

 

永遠に飽き飽きしていた

「終わり」を求めていたのだ

 

という発言からもそれがうかがえます。そしてついに猫に食われたことによってオーガは終末に達して「全体として存在する」ようになった

 

 

一方猫は使用人との会話のなかで

 

死ぬのを怖いと思ったことがない

そもそもそんなこと考えたことがない

 

と飄々と語っています。これは猫が9つの魂を持っている、つまり人生をやり直せることを踏まえたうえでの発言なのですが、同じ永遠をもっていたオーガ(猫に関しては9回という制限付きですが)と比べて「終わり」ということへの意識の薄さが感じられます。

 

この猫の状態はハイデガー流にいえば、日常性のなかに頽落した曖昧な状態、つまり「確かな存在」ではないのです。

 

多少いや、かなり?乱暴で飛躍した考えかもしれませんが、

「オーガ公爵」という実存(そもそもオーガ公爵の存在の虚実を疑うと議論に収集がつかなくなるので実存だと仮定させてください...)の正体としてふさわしいのは

 

・全体として存在するオーガ

・不確かな猫

 

のどちらかと問えばオーガに軍配が上がるでしょう。

 

 

 そしてこの「猫の存在は不確かなものであった」という考え方を使うと冒頭とラストのメタ的なシーンも少し違った見方ができるのではないでしょうか?

 

ストーリーテラーとしての猫

・物語の中の長靴をはいた猫

 

という2匹の猫がいたのではなくあくまでも猫はストーリーテラーであった。

長靴をはいた猫という存在は「あらぬ」ものであった。

 

そういえば、「カラバ公爵」というのもそもそも存在しない架空の公爵、「あらぬ」ものですよね。その幻影に王や姫、カラバ公爵である次男自身も翻弄されていたように、私たちも「長靴をはいた猫」の幻影に翻弄されていたのかもしれません。

 

 

なんて、いったい何が存在していて何が存在していなかったのか頭を悩ませている私たちにストーリーテラーの猫は答えを教えてくれます。

すべてがお芝居で架空のもの、すべてが実在ではなかったと。

 

猫はラストシーンで以下のような内容を語ります。

 

ときには真面目で真剣な話よりもバカ話のほうが大切かもしれません。

とはいえ今回物語がうまくいったのはそれがお芝居の約束事だからです。

私だけでなく、王の長男も、オーガの三男も、カラバ公爵の次男も、姫もウサギもすべてはお芝居の約束事です。

しばし、汗をかいて一生懸命務めたのも、すべては皆さんに楽しんでいただきたい一心です。

理性が目を光らせていることに疲れ果てたときには、長靴をはいた猫のお話を子守歌のようにして眠るのもいいのではないでしょうか?

 

そういって最後に

 

おやすみなさいまし

 

と一言残して暗闇の中へと消えていくのです。

 

この「すべては芝居」という内容に共通するような主張をハイデガーも『存在と時間』を著す以前に唱えています。

 

世界というものは日常的な現存在が演じている演劇のようなものだ

 

と彼は『根拠とは何か』『仮面論』のなかで指摘するのです。

 

つまり世界というのは「世界劇場」であり私たちは気づくとそこにいて何かしらの役割を常に演じている。

 

長靴をはいた猫は王やオーガを前に「敬意をはらった態度」を演じていたし、

そもそもその猫は京本大我が演じていた。

さらに「猫役の京本大我」も「座長の京本大我」も演じられた姿であるのでしょう。

 

そして私たちは舞台の観客を演じていた。

 

普段自分が選択して行動していると思っているすべては「世界劇場」のなかの決められていた役であるのかもしれません。

 

 

 

さあ、いよいよ存在とは何なのか、世界とは何なのか、その正体が分からなくなってきていませんか?

 

私はもう分りません!!!文章にすれば考えがまとまって分かりやすくなるかと思ったけど書けば書くほど分かりません!!

 

まさにオーガ様の

 

なんとなく分かるでいいのに、人間は分かろうとするから分からなくなるんだ

 

という言葉の通りです...。

 

おそらくこれが真理です。

散々「ある」だの「あらぬ」だのはっきりとした存在を追求しようとしてきたけれど、一見価値がありそうで、正しそうな真面目な話よりも価値のないと思われるバカ話が必要で大切なこともあるように、「なんとなく」とか「曖昧な」ものを大切にするのもいいんだと思います。

 

 

というのを着地点にさせてください...。

やっぱり哲学は難しすぎた...。

完全にタイトル詐欺やなこれ...。

 

 

以上がBOSS CATという作品から私なりに頭を悩ませ考えた内容です。

 

長々と書いた割に結論が「分からない」で申し訳ないのですが最後までお付き合いありがとうございました。人の考察や解釈が大好物な人間なので何か思うことがありましたらコメント、リプライ、DM、何でもいいのでお聞かせいただければ死ぬほど喜びます!

 

 

最後にペローの童話『長靴をはいた猫』の教訓を紹介しておきます。

 

まずは、

 

父から子へと受け継がれる豊かな遺産をあてにすることも大きな利益に違いないが、

一般に若い人たちにとっては知恵があったり世渡り上手であったりするほうがもらった財産よりずっと値打ちのあるものです。

 

これは舞台BOSS CATのなかでもきょも猫ちゃんから指摘がありましたし有名な教訓ですよね。

 

しかし調べてみるとペローはもう一つの教訓を提示しているそうです。

 

粉ひきの息子が、こんなに早くお姫様の心を掴んでしまって、

ほれぼれとした目で見られるようになったのは

服装や顔立ちや、それに若さが愛情を目覚めさせたからであって、

こういったものもなかなか馬鹿にはならないものです。

 

要は、世の中顔!顔がいいことは大きな武器

 

舞台では三男は姫から間抜け顔だのなんだと言われてその容姿については魅力だとされてはないのでこの教訓は採用されていませんが、まあ世の中この通りですよね!!

 

そう、顔のいい男たちは正義なんです!!!!

 

この終わり方どうなん?