松村北斗が必死で拾い集めた「あやめ」は何だったのか
3月26日、横浜アリーナ。
ジャニーズJr.祭り2018 SixTONES単独公演でそれは起こりました。
松村北斗によるソロ曲
「あやめ」(加藤シゲアキ)
の披露。
京本ソロ「茜空」の後、前触れもなく北斗君の声で聞こえてきた冒頭「決して空想~」で横浜アリーナに狂乱の渦を発生させたといっても過言ではなかったと思います。
やってほしいと思ってた曲をやってくれて嬉しい!
みたいな単純な興奮とは違うある種異様な空気に包まれた、うろたえるオンナたちを一気にその世界観に引きずり込んだ北斗君はまさに圧巻としか言いようがなかった。
私も目の前の光景を信じられないまま、ただただ彼のパフォーマンスに息をのんで立ち尽くしたオンナの一人なんですが、いまだに咀嚼しきれなくてとりあえず記憶の薄れないうちに感じたものをまとめたいなと思って初めてブログを書いています。
ただの個人的な主観によるポエミーな考察ですのでご注意ください。
長いので結論だけ知りたい人は「松村北斗の「あやめ」はいったい何だったのか」に飛んでください。
最初に
パフォーマンスの概要
をまとめると、
白シャツ+ジャポのパンツ+水色のストールの松村北斗が
メンステ→センステで
あやめの造花5~6本とともにコンテンポラリーダンスで披露し、
バックに髙地、樹、ジェシー、慎太郎がついた(おそらく京本はこの直前にソロ曲披露のため不在)
です。誰がどこで何をしたゲームみたい。
なかでも印象的だったのがあやめの扱いで、私のあいまいな記憶と優秀なオンナたちによるレポによると、
曲頭で一本一本拾い集め、途中でそれを床に叩き付け、また必死にかき集めて胸に抱え、それをまた放り投げて散らして、最後に一輪拾い上げて見つめるけどその一輪も手から離れて照明が落ちたんですよね。
あのあやめは北斗君にとっての何だったのか
それがずっとずっと頭の中をぐるぐるしていて。
なんとなく、あやめを目にしたときにあれはきっと大切なものなんだろうなって思ったのに途中で叩き付けるみたいに投げ捨て、そのくせ床に膝をついて無様にすら見えるほど必死にかき集めたり、虚ろな目をしていたかと思ったらすごく苦しそうに、泣きそうになっていたりして。
確かにあのパフォーマンスに胸を打たれて涙したのにいったいなにを表現していたのか受け止めきれなかったのでひたすら考えてました。
ということでまず
加藤シゲアキ さんの「あやめ」について
作詞作曲がシゲアキさん本人によるものでその歌詞がこちら
http://j-lyric.net/artist/a0566ec/l03ec82.html
2017年発売のNEWSのアルバム「NEVERLAND」通常盤に収録され同名のライブツアーDVDにてそのパフォーマンス映像を見ることができます。
シゲアキさん本人はこの「あやめ」をJohnny's web内のブログで
多様性、愛、植物、虹
をテーマにしていると話しています。
NEVERLANDというアルバムタイトルから理想郷が思い浮かび、そこには愛と多様性が不可欠で、多様性の象徴=虹、あやめは英語でIris=虹の女神とつながったと語ります。
以下、その歌詞の中で私の気になった点についての考察というか解釈のようなものです。
まずは初っ端
決して空想 夢想の彼方
このワンフレーズから難解だな!?
「決して」というのが「~ない」と続く否定の意味しか知らずにいまいち意味をつかめず違和感を覚えたのですが、辞書によると
1(あとに打消し・禁止の語を伴って)どんなことがあっても。絶対に。断じて。けして。
2必ず。きっと。
の二つの意味があり
②でとると、「理想郷は必ず思い描いた先に存在する」ということなのかな、と。
あるいは①で「~ない」が省略されているとすれば「理想郷は決して空想や夢想のむこうのものではなくて、現実になり得るのだよ」とも考えられるのでは?
とにかく「美しい世界は存在するから」と肯定しているのだと解釈しました。
また「空想」という単語についても
(1) fantasy 心理学的には,比較的非現実的でかつ創造的な想像活動の一形式。直面している現実の課題状況を直接解決しようとするような目的性をはっきりともたずに,そのときの感情や欲求,その他,気まぐれな内的状態によって方向づけられて,新しい観念や心像をつくりだす働きのこと。
(2) fancy 文学では中世以来想像とほぼ同義に用いられるが,区別される場合は,創造的芸術活動として位置づけられる。イギリスでは 19世紀初頭 S.T.コールリッジが,空想を統一原理なしに心象を並べる力と定義し,心象を融合・統一する創造作用としての想像 (想像力) と峻別して下位の精神活動とした。
という二種に区別する考え方があり、上の「決して」を②でとればfantasy、①でとればfancyに対応する気がして、たったワンフレーズでこんなに意味が分岐するのがおもしろいなと。
次に
あぁあなたの 歌声を 雨が流してしまっても
幼気に 巡りゆく やわらかな目をして
「歌声」というのは願いや希望のようなもので、それが「雨」という外的要因に阻害されてしまい叶わなかったとしても大丈夫、と伝えているのだとなんとなく感じたのですが、
「幼気」なのと「やわらかな目」をしているのは一体誰なんだ?という疑問が浮かびます。
そこで思い出したのがこの歌のタイトル、あやめ。
歌声=願い・希望=あやめの種であり、
それが雨に流され蒔いた場所で芽吹かなくても巡りゆきどこかで必ず花が咲く。つまり「幼気」に巡るのはあやめ種で、「やわらかな目」をしているのも咲いたあやめの花なのだと考えました。
続いてラップ詞の部分
紙で切れた指先のように
伝わらない痛みを忘れないように
この紙で切った傷という例えがすごく秀逸で、さすがシゲアキ先生だなと思うと同時に大学の講義で聞いた「人は他人の痛みを想像することはできてもそれを共有することはできない」というある先生の言葉を思い出しました。
先生がペットの猫を亡くしたとき、お悔やみの言葉とともに私もペットを亡くしたことがあるから悲しみが分かると涙を流してくれる人もいたけれど、その涙は自分がペットを失ったときの悲しみを思い出した、或いは失ったことがなくてもそのときの自分の気持ちを想像した涙であって僕自身が感じた痛みや悲しみと同じものではないというのです。
痛みや悲しみを共有することはできないなんて少し寂しい気もするけれど確かにそれは「伝わらない」もので、だからこそ自分の痛みは「忘れないように」してそれをもとに他者の痛みを想像しなくてはいけないのかもしれません。
空から落ちる蜘蛛の糸
んなもんいらねぇ飛んでやらあ
蜘蛛の糸というのは有名な芥川龍之介の作品で、地獄に落ちた主人公にお釈迦様が天から蜘蛛の糸を垂らして助けてあげようとした話ですが、そんな他人の力を借りずとも自分で飛んでやる、そのままの意味ですごく分かりやすい。
そして芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では、蜘蛛の糸に地獄の他の者たちも自分に続いて登ってきて、切れることを恐れた主人公は「この糸は俺のだ、おりろ」と喚き散らします。そしてこの自分だけが助かろう、という卑しい精神のせいで結局蜘蛛の糸は切れて地獄に再び落ちるんですよね。
この教訓も「あやめ」の愛、多様性というテーマに通じ得るような気がして、そこまで計算されていたのならさすがシゲアキ先生です。
雨の弓を渡れ 超えろ 抱きしめろ
「雨の弓」=虹だと直感で理解したけど雨(rain) 弓(bow)でrainbowなことに後から気づいてまさに目からウロコ。恥ずかしながらここで初めて知ったんですけどこれって常識なんですか?虹を雨の弓と表現したrainbowという単語を作った人の感性が素敵だな~。
続いて英詞部分
cause i need u cause i love u
knock knock open the door
英語なのはボーダレスを表現するうえでそうあるべきだと思ったからだとシゲアキ先生は語ってます。さすが。(n回目)
「あなたが必要だから、あなたを愛しているから、そのドアを開けて」
なんとなく「knock knock」するのはドアを開けてごらんと外から問いかける「i」でも、内側からドアを開けようともがく「u」でもいいけれど、
ドアを開けるのは自分自身の手で、ここでは「u」でなくてはいけないんだろうなと感じました。
(I) open the door (for you.)ではなくて命令形のopen the doorなんだと思います。
never give up, beautiful world
maikin' a good thing better
この最初のフレーズ、最終的に言いたいことは同じでもいろんな解釈ができるのでは?
とはいえ英語を専門にしていない人間の意訳ですのでお手柔らかにお願いします。
・まず「,」を命令文の後に続けて「~しなさい、そうすれば~」という意味で使っているとする場合、「あきらめなければ美しい世界になるから」
・もしくはコンマの後は理由だとして「世界は美しいからあきらめないで」
・あるいはコンマの後が対象として「美しい世界をあきらめてしまわないで」
どの意味でとったとしても美しい世界の存在を肯定して励ましてくれてるんですよね。そしてさらにもっと美しい世界にしていこうって。
そしてそんな美しい世界では
消して嘘 感傷よ放て
どこまでも
嘘なんかつかなくていい、自分の感じた痛みを押し殺したりしなくていいからありのままのあなたでいて、ということなのかな。
ついに最後
決して空想 夢想のあなた
今だけは キスしてよ
世界は 心の奥底にある
だから僕は生きていく
虹を歩いてく
最後でずっと「彼方」だったのが「あなた」になるけどこれは一体だれなんだ?という話です。
これは神さまを指しているのだと解釈しました。
「決して」は冒頭で示した「②必ず、きっと」の意味をとり、「キスしてよ」は口づけそのものというよりは、「どうかご加護を与えたまえ」として、
「きっと神さまなんて空想にすぎないんでしょう?
だとしても今くらいはそのご加護をちょうだいよ」
と少し皮肉交じりに。
そして神さまが例えいないとしても、
「世界は自分の心がつくるものだから、僕は自分で生きていく」
まさに「蜘蛛の糸なんていらねぇ、飛んでやらあ」なんですよね。
以上、加藤シゲアキさんのセルフライナーノーツと私なりの解釈から「あやめ」は、
傷ついたり落ち込んだり、世界に絶望してしまった人や、どうにもならない世界の中でもがいて苦しんでる人たちに対して、愛にあふれ多様性を認める美しい世界は必ずあるから自分らしく生きて、と伝えてくれているものなんだと捉えています。
膝を抱えてしまった人の背中に手を当て寄り添い、顔を上げさせ、目の前で飛んで見せて美しい世界へ導いてくれるような曲。
ライブやNHKいのちの歌でのパフォーマンス内のシゲアキさんはそんな美しい世界を切り拓き、旗を持ち私たちを先導してくれる存在のように感じました。
そしてここからがやっと本題。
松村北斗の「あやめ」はいったい何だったのか
シゲアキさんのように本人から解答やヒントを与えてもらっていないので完全なる主観による個人の解釈ですのでお気を付けください。
正直北斗君の「あやめ」からはシゲアキさんのそれとはほぼ真逆の印象すら受けました。どちらもはりつめたような、幻想的な空気のなかにあれどシゲアキさんのパフォーマンスから感じた力強さや希望とは反対に、北斗君からは儚さや痛み、葛藤が強く伝わってきて。
彼が心を乱し、拾い集めては投げ捨てまた必死でかき集めたあの「あやめ」は何を象徴していたのか?
そう考えたときにまず頭をよぎったのは愛する人ではないかという考えです。
私の中でなんとなく「コンテンポラリーダンス=恋愛(おもに失恋)ソング」みたいな図式があって、単純にそれに当てはめた形です。
大事に恋心をひとつひとつ拾い上げたけれど
どうしても許せないこともあってぶつかり合ってそれを投げ捨てて
だけど忘れられなくて、取り戻したくて必死にかき集めて胸に抱えて
でも結局それは宙へと散っていった
割ときれいに失恋の表現にはまりませんか?もしあの「あやめ」が北斗君の大事な人だったならそれに対する切ない痛みの伝わる美しい表現だったと思います。
でも私は北斗君が「愛する人」を叩き付けるように投げ捨てるとはどうしても思えなくていまいちしっくりきませんでした。
これは北斗君に対する私の勝手な幻想のようなものなんですが、もし北斗君が愛する人に対して幻滅し、絶望するようなことがあってもその苦しみを相手にぶつけることはないんじゃないかなって思ってます。むしろその絶望の原因は自分のせいだと責めて自己嫌悪でふさぎ込んでしまうような人に見えるなって。
だからあの「あやめ」は他者というより北斗君の一部だというほうが近いと考えました。
そして私が出した結論はあの「あやめ」は北斗君の生きる世界、人生そのものなんだろうということです。
最初に自分の人生を構成する要素をひとつひとつ拾い上げた北斗君。
だけど「歌声を雨が流してしまう」ように自分ではどうにもできない力に翻弄されることもあって髪を振り乱すくらい苦しんで葛藤して。
時には自分自身に絶望して生きてる世界をどうしようもないくらい嫌いになって投げ捨ててしまいたくなることだってあって。
そんな絶望から逃げ出すみたいに、泣きそうになりながら必死に走って。
それでもやっぱり失うわけにはいかないから必死でそれをかき集めて自分のもとに取り戻して。
と、ここまではいい感じなんですが最後に北斗君はあやめを手にしてないんですよね。放り投げて、最後の一輪からも手を離してる。
なんでだ?
これに対しては全く異なる答えが出せるんじゃないかな、と。
まず、北斗君はあやめを、自分の人生をあきらめて手放してしまった、という見方。
絶望して、散るならば最後は自分の手でとあやめを放り投げた。
花は散るから美しい、あれは痛いほどに美しいバッドエンドだったと捉えることができるのではないでしょうか。
また、「あきらめる」というのは一般的にネガティブなイメージを持たれがちですが仏教的にはそうではないみたいです。大谷大学「生活の中の仏教用語」によると「あきらめる」とは、
「諦観」、「諦聴」といった熟語の「つまびらかにみる、聞く」にみられるように、「つまびらかにする」「明らかにする」が、本来の意味である。そして、漢語の「諦」は、梵語のsatya(サトヤ)への訳語であって、真理、道理を意味する。
といいます。つまり北斗君はあきらめることで真理を手にした、そんな見方もできると思います。
そしてもう一つはシゲアキさん本家の「あやめ」に近い解釈。
北斗君が放り投げたあやめは神さまから与えられた人生・世界、歌詞における「蜘蛛の糸」に対応するようなものであって、これから彼は「ドアを開けて」自分の「心の奥底にある世界」を生きていくのだという捉え方。
これならあやめが彼の手から離れたのは絶望からではなく、フラワーシャワーのように彼の未来を祝福するためだと考えられ、美しい世界を描いた「あやめ」のテーマと一致するかなと思います。
そして何より私は北斗君に幸せになってほしいのでこの解釈で納得しています。
以上、大変長くなりましたが個人的な「あやめ」の解釈でした。
シゲアキさんと北斗君、表現は違えどどちらも胸を打つ圧倒的な美でまさに
「いずれあやめかかきつばた」
いやこれめっちゃ上手いことまとまったんちゃう?
あぁ~、いつか北斗君自身があのパフォーマンスについて言及してくれないかな~。でも私の解釈が全く見当違いだったら死ぬほど恥ずかしいな~。とりあえずもうすぐ始動するらしいSixTONESのweb連載楽しみだな~。
何はともあれ、ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
皆さんの解釈や、北斗君はあそこでこんな表現してた!とかあればコメントなりTwitter(@twinkleplough)のリプやDMで教えていただけると嬉しいです。匿名で投稿できるお題箱もプロフィールに貼ってるのでそちらでも!
事務所はもちろん円盤化してくれますよね。発売は秋ごろかな???
待ってまーーーーす!!!